錆付いた扉が軋る此の音は、一生忘れられないだろうと思った。尤も、其の一生が終わるのはさして遠くない先の事だとも。


泥に沈む

 目の前に開かれた扉の向こうは暗く、様子は全く判らない。後ろ手に縛られていた手が不意に自由になる。力強い腕に掴まれているかのように自由にならない肩を叱咤して、急いで前に回した手には幾条もの縄目の跡。赤と紫が入り混じった其の跡は絡みつく蛇のようで、見慣れている筈の腕が、自分のものでは無いように見えた。
 獄吏達が声と、鋭い刃で扉の奥へと追い立てる。
 拘束と暴力によって強張りきった体は他者に引き摺られる事無しには碌に動く事が出来ず、漸く踏み出した一歩の距離は彼らを満足させるものでは無かった。
 刃先が撫でるように、背一面に這う傷跡に触れる。痛みに、思わず踏鞴を踏むように前に出た。
 目の前には、泥の様に重い暗闇。思わず立ち止まり、軋む首を捻じ曲げて振り返る。此処への階段を降っていた時には陰惨だと思っていた、溶けては固まり、歪な形へと変貌した蝋燭が生み出す仄かな明かりさえもが、今は太陽よりも眩しく、優しく見えた。
 しかし、其の温かみのある色を目に焼き付ける間もなく、殴られるままに暗闇へと踏み込み、獄吏の松明で薄ら見えた階段を、追い立てられるまま数段降る。立ち止まり、なおも振り返った時、刃が肩口に、小さい割にやや深い傷を付けた。其の僅かな衝撃と鋭い痛みに、弱った足が蹌踉めく。姿勢を保とうと反射的に支えを探した足は、しかし踏みしめるべき地を持たなかった。
 階段は、僅か数段で断ち切られたかのように終わっていた。
 嘲う声と同時に、予期したのとは少し違う衝撃と水音がした。其れに覆い被さるように、鋲が打たれた重い扉が軋る音が葬礼の鐘の様に静かに、沈んだ音を立てる。
 口に飛び込んできた汚泥とも水とも判別し難いものに噎せ、慌てて立ち上がった。背の傷跡に水が染み、悲鳴を上げかけた口に、髪を伝って落ちてきた粘度の高い液体が入り込む。しかし、舌に張り付いた、軟らかい蛭の様な感触よりも、暗闇の、其れも水の中に一人残された事への恐怖とも何とも言えない感情が心を染めた。
 一部が腐り落ちた所為で歪んだ線を描く扉の下から洩れる明かりに向かって手を伸ばしたが、光は遠い。腰近くまである水を分けて進み、近づこうとすると、其れは遮られ、薄く、酷く不確かなものへと変った。伸ばした指先に触れたのは石を積み上げた壁。刹那考えて、其れが先程の階段の端なのだと気づく。
 出してくれと叫ぶが、返ってきたのは哄笑と、罪人を罵る言葉のみ。
 自らが罪人で無いと知る心には、其の声は、無実を証明出来なかった愚か者、陥れられるままに此処まで来た力の無い者に対する嘲りに聞こえた。


 階段の端を淡く照らしていた光は声と共にゆっくりと、しかし確実に遠ざかり、消えていった。
 残されたのは、千尋の谷より深く思える暗闇と立ち尽くす自分。水が動いているのか、壁に当たる音が僅かにするが、規則正しい其れ以外の音は無い。
 唐突に、扉の鋲や蝶番が錆付いていたのも、一部が腐れ落ちていたのも此処が一面の水だからなのだ、と思った。
 其れと同時に、形容もし難い程の悪臭が襲ってきた。否、今までは気づかなかっただけなのだろう。夏の路地裏よりも、とうの昔に住人を無くした家よりも淀んだ、粘りつくような臭いに思わずえづく。
 体を支えようと伸ばされた手が、壁に当たって滑った。苔か、其れとも他の何かの下に、微かに岩の感触がある。整然と積み上げられた石壁では無い。どうやら元は天然の洞窟であるようだ。
 酷い疲労感と水を吸った布の所為で体が重い。休める場所を探さなくてはならないだろう。
 込み上げる熱い何かを堪えながら壁に触れ、掌を滑る感触を頼りに奥へと向かう事にした。
 腰近くまである水はやけに粘つき、悪意さえ感じる程のしつこさで纏わりついては、ただでさえ遅い歩みを更に遅らせようとする。足裏に触れる床もまた、壁と同じく苔のような感触の物で覆われており、ふらつく足はすぐに滑り、幾度も転んでは全身を水に濡らした。其の為、汗と垢、そして血に染められたどぶ色の服が、新たな色になろうとしている。
 粘りつく何かと水が、牢獄の石造りの壁から染み出す冷気から身を守る事さえ出来ない程に裂け、無様な様相を呈していた布切れを通して、または裂け目から直接流れ込み、体を凍えさせていく。
 正体の判らない水の欠片が張り付き、痺れるような寒さを覚える。しかし、肩と背、そして腕の傷は疼くように熱い。背を滑り落ちていく、水なのか汗なのか、其れとも血なのか判らない液体が、傷を苛立たせる。
 しかし、其れでも足を止める訳にはいかなかった。止まればもう歩きだせないだろう。
 目を開いていても閉じていても何も変らないような闇の中、壁だけを頼りに歩き続ける。水面さえ見えない、自分と水以外に動く物が有るとも思えない闇の中を。
 空気は濃く、重く、もう二度と光を見る事は無いと思い知らせようとしているようだった。ぞくり、と骨の芯が冷え、震える音がしたように思った。光が無い事をこんなに厭わしく思ったのは初めてだ。輪郭の無い恐怖が、臓腑を揺らめかせる感覚に、幾分収まっていた熱い物が込み上げてくるのを感じる。其れでもやはり、足を止める訳にはいかない。周りを包む黒く禍々しい空気からも、火照りと寒さの板挟みからも、逃れ得るとは思えなくとも。
 此の洞は、何処まで続いているのだろうか、或いは何処まで広がっているのだろうか。此のまま歩き続けて意味が有るのだろうか。疑問は増え続けるが、答えは一つたりとも与えられない。
 そもそも、此のままの状態が続くのであれば、生きている意味など無い。そう思い当たると共に渦巻く疑問は収束し、小さな笑いが漏れた。自ら死を選ぶ気も力も残されてはいないが、其れを悲観する必要もまた無い。例え生に執着したとしても食べる物も身を温める物も無いに等しい此処で、そう何時までも生きて居られる訳は無いだろう。
 牢内に居た時にも、同じ様に自らに向けて問う事を繰り返した。何故此の様な事になったのかと、元の暮らしに戻れないのかと。其の問いもまた、答えを与えられる事は無かった。石壁に押し迫られるような狭い獄と振るわれ続ける暴力に疲れ果て、如何ともしようが無いのだという諦めが代わりとなっただけだ。今と同じ様に。


 転ぶ度に少しずつ増えていく、こびりついた汚泥と血は、入り混じって皮膚と服、否、体全てを斑に染め、其の境も判らないような有様にし、髪を幾つもの房に分けては歪ませているようだ。明るいところで見れば、汚らわしく厭わしく、そして滑稽な姿であるだろう。幸いと言っていいのかは判らないが、辺り一面は相変わらずの闇で、自分ですら其の姿を見る事は出来ない。
 其れにしてもどれ程の間、歩いているのだろうか。足はもう持ち上がろうとすらしない。蛇の様に這いずり、水底の滑りを掻き取る積もりででもあるかの様に地を擦りながら、ほんの僅か前へと体を運ぶだけだ。
 闇は相変わらず深く、進んでいるのか、其れとも廻っているだけなのかすらも判別のしようが無い。
 自らの居場所を少しでも明らかにしようと岩壁に突いたままの手は、少しずつ位置を下げ、今や腰よりも低い。伴って体は徐々に壁に近づいていき、今やふらついただけで壁に肩を擦る。其の度に傷が存在を声高に主張し、朦朧とし始めた意識を束の間はっきりとさせる。
 もう幾度目か判らない其の微かな覚醒の間に、耳は僅かな物音を捉えた。
 水の音でも、自身が立てる音でも無い音を。
 暫くは、何の感情もわかなかった。ただ酷く曖昧にではあるが、何らかの生き物がいるのであれば糧になるかもしれないとは思った。何の希望も無い命を繋いでどうするのかという疑問が浮かび、何らかの制約があるかのように掻き消される。恐らく本能とも呼ぶべき何かがそうさせるのだろう。
 そもそも音の主が助けになる物とは限らないのだが、何の当てもなく歩き続ける事に倦み疲れていた為、其の音の方へと向かう事に決めた。
 周囲の状況は変化しても、体が変わる訳も無く、歩みは遅々として進まない。しかし、其の鈍重な歩みを助ける様に音は断続的に聞こえてくる。果たして神の救いなのか、魔物の誘いなのか。悩んでも仕方が無いのだが、どうしても心は惑う。
 不意に、手からぬるりとした感触が消える。湿った空気は、しかし壁面に比べて乾いた感触を掌に与えた。慌てて探ると、どうやら壁が曲がっているらしいとわかる。ほぼ直角を描いているようだ。
 探り当てた壁に再び手を突き、恐る恐る角の向こうを覗く。
 目に飛び込んできたのは、淡く微かな白い点。気の所為でも、願望が見せる幻でも無いとすれば、数刻前には貧しくとも存在し、そして少し前にはもう二度と見られないのかと絶望した筈の、光。
 早く辿り着きたいと足を速めようとし、其の緩慢さをもどかしく思う気持ちと、喜びが無駄になり、更なる絶望へと変じる事を恐れる気持ちが鬩ぎ合う。其れでも足は少しずつ、体を其方へと導いた。
 ゆっくりと近づいてくる光は酷く弱々しい。しかし、光であるというだけで十分だった。恐らく其れがただの発光する何かであったとしても構わないとすら思える。自分の惨めな有様は正直目にしたくも無いが、闇に包まれているよりは格段にいい。


 焦れ、恐れる心を宥めながら進む。近づくにつれ、白い点は点では無くやや横長の帯状になり、どうやら横道のような物から漏れ、水面に反射している光であるようだとわかった。物音もやや大きくなっている。少なくとも、何かは有るのだ。
 歩みによって生み出されるか弱い波が反射する光の形に影響を与えるようになるまで近づくと、光が来る横道が、嘗ては鉄格子で塞がれていた事に気付かされる。周囲の壁は、人の手が加わったものであり、其処から錆びついた鉄の棒が思い思いの長さで突き出していた。
 心の底に沸いた淡い期待を慌てて打ち消し、堪えきれず沸いた生唾を飲み込む。そんな筈は無い。出られる訳など無い。
 重い疲労を引き摺り、微かな期待のみで此処まで体を引き摺って来た足が止まる。
 鉄格子の向こうを見、其処に何が待ち受けているのかを知るのが、堪らなく怖い。そう思っている事に気づくと共に、寒気からでも傷の痛みからでも無い震えが背を走る。無意識の内に肩の傷に触れた手に力が篭り、爪の間に厭な感触を覚えた。鋭い痛みと温かい血が腕を伝って滑り落ちる。
 それが水面に滴り落ちる音を掻き消すように、壁面に反射していてなおしっかりと聞き取れる落ち着いた声が、此方に来ればいいと呼んだ。出られはしないが、取って食いもしないと続く。神でも魔でも無い、人の、其れもやや年配の男の声だ。其の後には密やかな笑い声が続いた。辺りに反射している為に良く判らないが、どうやら複数の人間が其処には居るようである。
 否が応でもゆっくりとした足取りで進む。出られないという言葉に感じた絶望は、必死で希望を殺していた為か然程大きくは無い。やはり、という鉄の風味を持つ諦めの言葉が、微かな苦味と共に飲み下され、胃へと滑り落ちていく。
 鉄格子の残骸を掴み、壁の滑りで濡れた掌に錆片が刺さる程に握り締め、体を引き寄せる。
 先ず目に入ったのは正面奥に嵌った鉄格子と差し込む淡く遠い光の筋。次いで両脇の壁。棚状になった窪みが複数刻まれ、各々に一人ずつ人間が納まっている。日焼では無く、泥や垢で斑に何とも言えない褐色に染まった肌には、汚れで誇張された幾筋もの深い皺。強張りきった髪は一様に乾いた泥灰色をしている。手足はほぼ剥き出しに近い状態で、彼らの此処での生活の長さを物語るかのように筋が目立った。
 幾人かの露出した肌には歪んだ塊が幾つも見受けられ、中には腕全体が節くれだった老木の様に為っている者すらいる。どうやら傷が腫れ、膨れ上がったままに固まった物だと気づくまでには少しの時間が要った。生き延びれば自分の傷もいずれはと考え、思わず肩に手を遣る。固まりかけた温い血が指先に触れて、糸を引いた。脈打つのに合わせた、杭を打たれるような痛みが体中に響き、鞭打たれた痕や腕の縄目の跡までもが其の存在を主張する。
 一番奥、格子に近い上段の窪みに座っている男が、久方振りの新顔だと口を開いた。どうやら彼が、先程の声の主であるようだ。他の面々に比べて、頭一つ程の長身に見える其の姿に何処か見覚えがあるような気がした。
 何の罪状だとは問わん、どうせ何も無いのだろうと告げるやや尊大な其の口調からすると身分が高かったのかもしれないと考えて、彼の素性に思い当たる。嘗ては綺麗に整えられていた髭が鳥の巣のように絡まりあい、不可思議な形に固まってさえいなければすぐに気づいただろう。彼は数年前、病気で亡くなった筈の騎士だ。近衛の副団長まで務めた男が、何故此処に居るのだろうかという問いの答えはすぐに、本人から与えられた。
 此処は表立って処刑できない者を捨てる場所だと言った時、元騎士の片頬に浮かんだ笑みを表現する言葉は出てこない。自嘲と皮肉、其の他諸々の感情が入り混じった其れは、いっそ剽げているようにも見えた。
 法に裁かれる類の罪を犯した者など此処には居ないという彼の呟きに、全員が頷く。にやけた様な笑みも、昏い眼差しを隠し切れはしない。不満と諦観の狭間で空気までもが揺れているようだった。
 其の雰囲気に飲み込まれるままに立ち竦んでいたが、格子の辺りは水が浅い、乾いては居らんが腰を降ろせるのは其処だけだという元騎士の言葉に促されて漸く歩き出した。奥へ、光の方へと。
 徐々に水が浅くなり、足にへばりついた汚泥が、露になっていくにつれて少しずつ落ちていく。水位はやがて踝を切り、終いには足裏へ泥が粘りつくばかりになった。
 手を伸ばし、格子を掴む。座りはせずに其のまま顔を押し付けるようにして見つめる。
 辛うじて陽光だろうと推測が出来る光と自分の間には、幾重もの鉄格子。其の向こうには、傾斜は少しだが、長さによって入り口を隠している坂。光の道が淡く淡く、其れを降って此処まで伸びている。
 此処に入れられた時は朝方だった。もう随分居るような気がするのに、光の色は未だ暮れ染めてすらいない。
 城の奥庭に繋がる此処には色々な物が捨てられて落ちてくると呟く元騎士の声は何処か懐かしむような響きで、思わず振り返る。何時の間にか顔に半ば埋め込まれる様にして張り付いていた赤錆が落ちるが、すぐに泥土に飲み込まれて音すら立てない。
 城の残飯が捨てられた時は皆で分ける決まりだ、と元騎士のすぐ下の棚の男が言った。運が良ければ腐り果てる前に落ちてくる。そう続けて男は小さな厭らしい笑声を立てた。元騎士が、まるで部下を目の前にしているかの様に重々しく頷く。
 愕然としたと言う言葉では足りない衝撃に襲われ、思わず格子を握りなおす。誇り高い騎士、嘗ては咲き誇る栄華の中に在った男が、腐った残飯を食い、生に縋り付いて居るというのか。其処までして生き延びる意味は、目的は何だというのだろうか。
 此処に居ればわかるというひっそりとした呟きが背後から聞こえた。神経質そうに節ばった指を組替え続けている声の主は、未だ若い。恐らく同年輩だろう。伸び放題に伸び、乾ききって粉を吹いたようになっている泥灰色の髪を透かして此方を見ている彼の視線は此方に焦点を結んでいるようでいて、何処か違う所を見ているようでもあった。
 彼の呟きが自分に向けられた物なのかどうかは判らない。しかし、そうであるようにも思えた。此処に居れば何がわかるというのだろう。生にしがみつく意味だろうか。そう考えて、自分の中に些かの未練が生まれている事に気づいた。
 視線を格子に戻す。微かな道、今にも途絶えそうな淡く白い光。恐らく此れの所為だ。此れが育もうとしているに違いない。僅かではあるが、憎しみさえ覚える。深い絶望に首まで浸かりながら、此の僅かな希望の所為で何時までも苦しまなくてはならないのかと。
 苛立ちに歯を食い縛るが、目を逸らす事は出来なかった。愛しく、厭わしく、目に見えるにも関わらず手に届かない所で自分を誘い、一方で嘲笑う魔物。其れが今の自分にとっての希望全てであると知って目を逸らせる者が居るだろうか。
 夜であれば、此処に辿り着く者は恐らく居ないと言う元騎士の声は、今まで此処に辿り着かずに飢え、凍えて死んでいったであろう者達への憐憫を感じさせた。良い時に来たなと続ける彼の声に被さる不満めいた気配を覚える。自分が来たことで食料は確実に少なくなる。元々豊かでは無いであろう其れに対する執着は、生への執着と同じ物の筈だ。となれば恨みを買っている事は当然の成り行きだろう。
 丸でそう考えた事が見透かされたかのように、落ちてくる物に迂闊に手を出すと死ぬ、抜け駆けするなよと釘を刺された。本当に色々な物が捨てられ、流されてくるのだと元騎士の下段に座る男は続ける。毒入りの菓子が箱ごと流れてきたときには、抜け駆けした新入りが死んだのだと笑い、だから忠告してやるのだと恩着せがましい口調で続ける彼に同意するかのような笑声が、反響の所為で全方位から背を囲う。
 自分達同様、体面を保つ為に捨てなくてはならない物、塵芥は勿論、破られた手紙、嬰児、城内の醜聞に関わる物なら全て流れてくるのだという言葉に辺りを見るが、其れらしい物は何も無い。狼狽した様子で視線を彷徨わせていると、食っちまうからな、という言葉が掛けられ、其れは、水が毒に変じる前に食えない物は捨てに行くのだと続いた。
 塵溜めの中に更に塵溜めがある。そう考えると可笑しくて、口の端が微かに歪む。乾きかけた泥が割れ、しがみつく力を失った其れは剥がれて落ちた。
 誰か死ねば棚が空く、と此の場に居る誰かの死を口にしたとは思えない無造作な口調で元騎士は言い、其れを待つのだな、生きていれば其の日も来るだろうと呟いて、彼は抱えた膝に顎を埋めて目を閉じた。


 体重を預けると耳障りな軋音を立てる格子を支えに泥濘に腰を降ろすと、勢いをつけた訳でも無いのに濁った音と泥が跳ねた。座った所為で水が滲み出、腰に纏わりついていた服を濡らす。浅い筋をつけて流れた其れはすぐに染み込み、辺りは再び滑らかな泥濘となった。伝わってくる、沈み込んでいく様な感触は気味の悪い物だが、立ち上がる気には為れない。
 思い出した様に襲ってきた疲労に頽れそうな体を支えようと付いた手に鉄格子の、一部が腐り落ちた為に鋭く尖った下端が触れる。
 首を捻じ曲げて向こう側を見る。幾つも幾つも立ち塞がっている鉄格子が全て同じ様な状態なのだとしたら、何時かは此処から出られる。しかし、其の先は王城の奥庭という、国内で一番入るにも出るにも困難な場所なのだ。逃げられる訳が無い。そもそも鉄格子が腐り、此の場所の入り口のように落ちるまでにはどれ程の時間が要るのかさえ判らないというのに、そんな事を考えて何になるというのだろう。
 絶望感に寄り掛かった格子から、錆片が剥がれ、泥に赤茶けた染みを作る。
 肩が疼く様に熱い。先程まで温く粘っていた血も最早固まっている。引き攣れて痛むが、無理に剥がせばまた血を失うだろう。血を失えば、体が冷える。其れは死へと近づく事なのだ。
 薄く薄く、笑いが漏れる。背に受ける微かな、そして湿った温もりに騙されて、死を忌避する心を芽生えさせた自分が可笑しい。
 目の前に延びる自分の影に視線を落とす。光が淡い為、影も薄い。其の先に在る、闇に閉ざされた水路へ近づく事も其の先に待ち受けるであろう死も、酷く忌まわしく恐ろしい物に思えるようになってしまった。
 こうして光を受けている限り、闇を、死を恐れ続けるのだろう。遠い希望に向かって足掻き続けるのだろう。其れは、此処では容易に選び得る死よりも遥かに辛く、長い苦しみを齎す筈だが、もう立ち上がる事は出来そうに無かった。




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