古の香る文



「見てみろよ、この綺麗な筆跡」
 一人夕食をとっていたウォルムは、隣の男の興奮した声に、視線をそちらに向けた。
 昨夜、この店で親しくなったその男の手には、曲線の連なりにしか見えない字が書かれた古びた紙。
「……古代語か?」
 遺跡などへ赴いたことがあるため、ウォルムにとっては見覚えがないこともない字体であった。もっとも、その美醜がわかるほどに見慣れているわけではない。
「読めるのか?」
 驚いたような顔で問い返され、かすかな苦笑を浮かべる。彼もまた、世の大半の人間と同じくその文字を読むことはできない。
「読めないのに、綺麗な字だなんて良く言うよ」
「うるさい。とにかく、これだけ見事な文字を書いてるんだ、きっと中身も凄いに違いねえ」
 なおも興奮気味に語る男。ウォルムはにやり、と笑みを浮かべて体を彼の方へと向けた。
「……読めたら、いくら出す?」
「読めるのか? まさか!」
 信じがたいといった表情で男が叫ぶ。閉店も近い時刻の酒場にいた疎らな客の視線が集まったことに気付いて、男は慌てて身を縮めた。
「嘘だと思って一晩貸してみろよ」
「持ち逃げする気じゃねえだろうな」
 疑いの目で見られ、ウォルムは男に向かって金貨を一枚放り投げた。
「読めたら返せよ」
「あ、ああ」
 どうやら本気で言っているようだと判断したのか、男は金貨を受け取り、代わりに紙を差し出した。
「で?」
 たたみかけるように尋ねられた男はしばらく考えた後、金額を口にする。
「よし、決まりだな」
 大した額とはいえないが、路銀の足しにはなる。そう判断して紙を懐にしまう。明日の晩にまたここで、と言い残してウォルムは町外れへと向かった。


 宿に泊まる金を惜しんだ彼が野営している町はずれの空き地では、出かける前に用意した焚火と緩やかに尻尾を地に打ちつけている騎龍が彼を待っていた。
『遅い』
 いつもながら機嫌がいいとは言いかねるミラールの声がウォルムの心に響く。
 気にも留めずに座り込み、ウォルムは先ほどの男との顛末を彼に話した。
『……で、私か』
 不機嫌そうに鼻を鳴らしてミラールはそっぽを向いた。
 古代から存在している種族である人龍族、それも将来は里の長ともなるべき身とあって、古代語の知識を身につけてはいるが、それを都合よく利用されるなどということは、彼の好むところではない。
「そ。読めたら金は払うってさ」
 男から聞いた金額をそのままミラールに伝える。それを聞いたミラールは小さく息を吐いた。
『そのような小金のために……』
 ウォルムの懐がさして豊かではない事は知っている。それを考えればたとえ額が低くとも彼にとってはありがたい収入には違いないであろう事も。そのため、ミラールの口調は日頃よりやや弱く、語尾はそのまま空に消えた。
「額はどうでもいいよ。それに、面白そうだと思わないか?」
『よこせ』
 諦めたような調子で言い、体に比べて小さな手でウォルムが差し出す紙を受け取ったミラールは、眉間に皺を寄せた。
『――をゆにし――ひどい手蹟だな』
 一行目に目を通し、ミラールは解読できたところと感想を呟いた。
「そうなのか? 持ち主はやたら褒めちぎってたぜ?」
 俺には良くわかんないけど、と続けてウォルムはミラールの横顔を窺った。
『汚い』
 きっぱりと答え、ミラールは溜息をついた。
「紙が汚れてるとかじゃなくて、筆跡が汚いのか」
 問いに頷き、再び紙へと視線を落とす。
『走り書きとしか言いようがない。――――ゆづ――なり。しかるのち―――』
 眉間の皺を深くしつつ、ミラールはその紙を読み続けた。
 さっぱりなんのことだかわからない。ウォルムは心の中で呟いた。おそらく読んでいるミラールもわかっていないだろうと思われる。何しろ情報量が少なすぎるのだ。
 退屈そうに聞きながら、ウォルムは小さな欠伸をかみ殺した。
『こんがふし――――』
「まるで呪文だな」
 あまりの退屈に、つい口を挟む。ミラールに睨まれ、彼は肩を竦めて口を閉ざした。
『――あぐ――べ――――』
「で?」
『ここで終わりだ』
 鼻を鳴らし、ミラールは視線を紙から上げた。
『読めないところが多すぎる』
 こんな汚い字を、焚き火の明かりと月光だけで読めるわけがないだろう、となぜか偉そうな口調で続け、再び鼻を鳴らす。
「なんとかならねえか?」
『明日、もう一度試してやる』
 嫌がっていた割にはやる気だなという一言をウォルムは飲み込んだ。口にすれば、おそらくもうやらないなどと言うだろう。
「よろしく」
 飲み込んだ言葉の代わりにそう言って、彼は毛布を引き寄せた。


 翌朝、ウォルムが目覚めた時にはもうミラールはとうに起きて例の紙片を眺めていた。
「なんかわかった?」
『ああ、大体はな』
 確認するかのように視線を紙片へと走らせ、小さく頷く。
「で、内容は」
『まあ、少し待て』
 返ってきた思いがけない答えに、ウォルムは数度目を瞬かせ、彼の顔をまじまじと見つめた。
「待つって、いつまでだよ」
 そう尋ねた時、ミラールは人間の姿を取るべく何事かを口の中で呟いていた。
 ぼんやりとした、だが朝の眩しい日差しにも透けることのない煙のようなものが彼を包む。それが晴れた後には長身の青年が一人。人間姿のミラールである。少し癖のあるくすんだ金の髪が、日に映えて鈍い光を放っている。 「なんの必要があってだよ」
 ウォルムは本人には聞こえないように呟いた。彼が理由もなしに人間の姿をとることはない。
「町でもどこでも散歩してこい。太陽が中天に昇るまで戻ってくるな」
 低く艶のある声でそう告げられ、ウォルムは戸惑ったような表情のまま、町へと向かった。


 当てもなくふらりと町をさまよい、近くの川で水浴びまで済ませてウォルムは町外れへと戻った。
 ミラールが待つ場所まであと少し、というところで足を止める。
「……なんだ?」
 聞き覚えのある、だがそこからするはずのない軽い音。
 ウォルムは足を速めた。
「お前にしてはめずらしく、約束通りではないか」
 彼を迎えたのは、そんな言葉と、香ばしい匂いだった。ミラールの後ろにある、普段ウォルムが雑穀や汁を煮ている鍋から油の爆ぜる音が聞こえている。
「珍しくは余計だ。大体なにやってんだよ」
 尋ねる彼の鼻先に、綺麗な狐色に揚げられた物体がのった木皿が突きつけられた。
「いいから食べてみろ」
 訝しげな表情を浮かべる彼に、ミラールはそう言って皿を押し付けた。
 ウォルムは恐る恐るそれをつまんだ。持てないほどではないが、熱い。思い切って口に運び、歯を立ててみる。衣は快い音を立てて崩れた。
 すり潰した芋に衣をつけて揚げたもののようだった。彼の故郷をはじめ、いたるところで作られている普通の料理である。
 しかし、味は普通ではない。そこらの町の店先や酒場などで売られているものより、遥かに美味である。
 ウォルムは無言のまま、渡された一つを平らげた。
「あの文書の通りに作ってみたのだが」
 いつの間にか全てを揚げ終えたミラールが彼へと視線を向けていた。几帳面な彼らしく、周りは既にきちんと片付いている。恐らく料理を作りながら一々片付けていったのだろう。
「料理の手順書、か?」
「そうだ」
 そう答えてミラールは自らも山と積まれた中からひとつを手に取る。
「ふむ……うまくできたようだ」
「ああ」
 ウォルムはちらりと横に座っているミラールを見た。この貴公子然とした男が食材を買い、芋などの下ごしらえをしている姿には違和感があったことだろう。おそらくいつものように眉を顰めながらであったことは、まず間違いない。
 芋の皮を剥く彼の姿を想像したウォルムは、あまりの似合わなさに小さな笑みをこぼした。
「どうした?」
「なんでもない」
 慌てて否定する彼に向けられたミラールの訝しむような視線を避けて、皿に手を伸ばす。
 二人は山が半分ほどになるまで、無言のまま食べ続けた。
「……手数料くらいはもらわないとな」
 ウォルムは手についた油を舐め、小さく溜息をついた。内容がこれでは、最初に約束した金額をとるのは気の毒だろうと思ってのことである。
「そうだな」
 残念そうな口調ではあるが、初めての料理がうまくいったせいか、ミラールはどこか満足そうな表情を浮かべている。
 それを見てウォルムは、まあいいかと心の中で呟き、大きく伸びをした。



 14001Hitキリ番リクエスト作品です。
 「食事」というリクエストで書かせていただきました。

ちなみにミラールの台詞は「湯煮し――」「――茹づるものなり。然る後――」「――混合し」「――揚ぐべし」
こんな感じです。