光の織る帳
「この調子だと、雨が降るかな」
ウォルムは空を見上げて呟いた。濁った灰色の雲は重く、低い。
彼の乗っている騎龍、ミラールはその声を聞いて小さく身を震わせた。
『降らんといいが……雨は好かん』
里にいた頃はそうでもなかったが、という部分をミラールは飲み込んだ。
整えられた清潔な洞から雨を眺めるのは好きだった。しかし、旅路で雨に遭い、濡れそぼったままで歩くのは不快以外のなにものでもない。ミラールは先日の大雨を思い出して目を細め、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「でもたまには降らないと、作物が実らないからなあ」
『屋根のあるところに居る時ならば、いくら降っても構わん』
町につけば、たとえそれが騎龍用の小屋であれ、屋根の下で眠る事ができるだろう。そう考えたミラールは足を速めた。もうすぐ日が沈みはじめる頃合である。
「急に走りだすなよ」
『とっとと町に行く』
ウォルムの抗議を気にも留めず、ミラールは更に足を速めた。
やれやれと呟く声も、彼の耳には届かなかったようである。
「宿代、まだあるかなあ」
手綱を掴みなおし、姿勢を変えたウォルムは、残り少ない持ち金を思い出してそう呟いた。
『無ければ立て替えてやる』
とにかく雨の中で野宿するのはごめんだ、と強い口調で続ける。
「まだもう少しあるからいい。それよりあんまり大声出すな、頭痛くなるから」
騎龍の姿をとっている時のミラールの声は、直接心に伝えられる。あまり強い調子だと、それは時に頭痛や眩暈にも似た感触を伴って響くのである。
鼻を鳴らしてウォルムの言葉を切り捨て、ミラールは小走りに先を急いだ。町はまだ少し先だが、坂の上にいるせいもあって、彼の視界にはもう入っている。雨が降り出す前に辿り着けるはずである。
ミラールは坂の下に、彼らと同じように町を目指しているらしい荷車がいることに気がついた。横を抜けられないほど狭い道ではないが、騎龍二頭に引かせた車はそれなりに大きく、何かの弾みで接触しないとも限らない。
仕方なく彼は少し速度を落とした。
「見ろよ、あの騎龍、角飾りなんかつけてるぜ。都が近いと違うな」
近づいてみると、荷車を引くためのものであるにも関わらず、騎龍は二頭とも綺麗に手入れをされていた。たてがみは編みこまれ、角は磨きたてられた上に、鈴がついた輪で飾られている。鞍や手綱も上質なものである。
『あのように鈴がなったのではうるさいだろうに』
そう言いながらも、ミラールは視線をちらりとそちらに向けた。
その視線を受け、二頭の騎龍は怯えたように身震いする。いや、実際怯えているのである。人龍族は、騎龍たちの長。抗いがたい存在なのだ。
「兄さん、良い騎龍だね」
そんな二頭を宥めながら、手綱を握っていた男はウォルムに声を掛けた。
「ありがと」
行く先々で聞き飽きるほど聞いた賛辞を、ウォルムはさらりと受け流した。
『私は騎龍ではない』
姿は騎龍そのものなのだから仕方がないことだと理解はしているが、未だ騎龍扱いに慣れないミラールは、いつものように呟いた。しかし、その声はウォルムにしか届かない。男に聞かせることができないわけではないが、説明してまで否定する気はさすがのミラールにもなかった。
「俺はこの近くで騎龍を育ててるんだ。色々な道具も扱ってる。鞍の替えや餌が入用なら安く売ってやるぜ」
どことなく自慢気な声で男は言い、荷台に視線を送った。そこには町に持っていくのであろう騎龍用の道具や餌が整然と山積みにされている。
「今のところ不自由はしてない」
「……なあ兄さん、時間があるなら相談がある」
ウォルムはその声に首を傾げ、再び駆け出そうとするミラールの手綱をしっかりと握りなおした。別段この男と会話がしたいといった訳ではない。話し掛けられているのに駆け去るのも悪いだろうと思ったまでのことである。
「あんたが乗ってる騎龍を貸してくれないか?」
「は?」
少し訝しげなウォルムの表情を気にも留めずに男は続けた。
「うちの雌に種付けしたいんだ」
『断る!』
ウォルムが口を開くよりも早く、ミラールの怒声が彼の頭を駆け巡る。
「悪いけど、遠慮しとくよ」
微かな苦笑を浮かべながら彼は答えた。最初は同じ小屋に泊まることさえ嫌がっていたミラールが騎龍と番うことなど承知するわけがない。それくらいのことは、頭の芯に叩きつけるような大声で言われるまでもなくわかっている。
「金は弾むぜ?」
ウォルムは食い下がる男に首を左右に振って見せた。冗談にでも好意的な回答をすれば、頭痛がするどころではない声で怒鳴られるだろう。
「残念だな。まあ、明日の夕方までは町にいるから、気が変わったら声を掛けてくれ」
いかにも残念そうに肩を竦め、男はちらりとミラールを見てから視線を正面に戻した。
「ああ、そうするよ」
答えてウォルムはようやく手綱を弛めた。それと同時に、ミラールが駆け出す。
『変わるわけがない。全く馬鹿な事を……』
走りながらミラールは、呟くような声で文句を言い続けた。
「……路銀もねえしなぁ」
ウォルムは悪戯っぽい笑みを浮かべて呟いた。
『ウォルム!』
途端に、鋭い声が頭に響き渡る。ウォルムは片手を手綱から離し、こめかみを押さえた。
「冗談だよ、ちゃんと断っただろ」
『信用ならん』
「ひでぇなあ」
言下に切り捨てられ、ウォルムは溜息と共にぼやいたが、それに対する返答は鼻息一つであった。
酒場の喧騒と明かりが漏れる窓の前、ミラールはウォルムの夕食が済むのを待っていた。細い杭を地面に浅く打ち込んだだけの繋ぎ棒には、同じように人待ち顔の騎龍が数匹。ただし、彼は繋がれていない。騎龍は他の家畜に比べて賢く、無闇に逃亡したり、暴れたりはしないため、放しておくことが黙認されているのである。
ミラールは顔をあげて通りを眺めた。そこもまた、壁の向こうと同じように酔っ払った人々で騒がしい。
人間はうるさすぎる、と心の中で呟く。彼はそうした騒々しさを疎ましく思う一方で、生まれ育った里とはまるで違う光景を楽しんでもいた。退屈そうな表情のままではあるが、視線は店や家から漏れる明かりに照らされている通りを行き来する人間から外そうとしない。
しばらく後、ミラールは扉が開く音に気付いて視線を通りからそちらへと移した。そこから見慣れたウォルムの姿が出てくるのを見、遅かったな、と言おうとしたミラールは、刹那の後、訝しげな表情を浮かべた。
ウォルムの後ろから出てきたのは、先ほど街道で声を掛けてきた男であった。何を話しているかは聞こえないが、二人は上機嫌な様子である。
疑念が胸に兆す。ミラールはそれを打ち消そうとしてみたが、完全に拭い去る事はできなかった。彼の顔が、見る見る内に不機嫌な時のそれに変わる。傍にいた騎龍たちは怯えた様子で、数歩、後込みした。
彼の視線の先で、二人は一旦立ち止まった。
「ほらよ」
そう言って男が金属の鋭い音が鳴る小袋をウォルムに渡すのを見たミラールは、彼を怒鳴りつける事も忘れて、喧騒の渦巻く通りへ駆け出していった。
「じゃあ、これで」
そう言ってウォルムが男に背を向けたそのとき、通りに悲鳴が上がった。
「騎龍が逃げたぞ!」
酔声がそうがなりたてるのを聞いた彼は、そちらに視線を向けた。その先には人ごみを蹴散らし、罵声を浴びながら走っていくミラールの姿。
「ミラール!」
思わず叫んだウォルムに、人々の視線が集まる。
「兄ちゃん諦めな、追いつけっこねえ。俺の騎龍を売ってやるよ。三歳の気立てのいい雌だ、金貨十枚」
騎龍を連れて騒ぎを見ていた酔っ払いが、笑いながらそう声を掛ける。その男の周りにどっと笑いが沸いた。
「高い!」
その男の方を見もせずに、しかし律儀に答えを返したウォルムは、酒場の軒に吊るされていた角灯を掴んで駆け出した。
「鞍もつけるぜ!」
背に投げつけられる声に、それでも高いと呟きつつ、彼は懸命にミラールを追った。
町の外まで逃げ出したミラールは、街道と町へ繋がる道とが交わる辻で足を止めた。刻限が遅いこともあって道にはほとんど人影はない。
彼は道から出、辻の傍らにある木に身を寄せた。
ウォルムは酒場であの男と話しているうちに気が変わったのだろうか、それとも、それほどまでに路銀がなかったのだろうか。金の問題なら、自分が解決してやることもできたのに。
自分が嫌がっているとわかってくれている、そう思っていた彼は、酷く沈んだ面持ちで俯いた。
まさか、あんな奴だったとは、と心の中で罵る。
しかしこれからどうすればよいのだろう。そう呟いてミラールは厚い雲の垂れ込める空を見上げた。
里の外にはまだ不慣れな自分一人では、どうしようもない。人間の姿で出歩くには知識が足りないことも、主のいない騎龍が無事に旅していくことができない事も、痛いほどわかっていた。
里に帰る――そんな考えがふと胸に浮かんだ。彼自身は、人龍族は滅びるべき定めにあると諦める心積もりはできている。しかし、里の者たちはさぞかし落胆するに違いない。彼の出立をあれほど喜び、精一杯の贈り物をしてくれた老人たちを裏切りたくはなかった。
しかし騎龍の雌と交わり、子を残すなどということもまた、したくはない。
決断をくだせそうにない自分に対する深い溜息が、彼の口から漏れた。
今まで彼はこのように悩んだことはなかった。父の代理として、さまざまに里のことを取り仕切っていた自分はどこへ消えたのだろうかと思う。所詮里の中という狭い世界だからこそできたことなのだろうか、と。
しばし俯いたまま考え込んでいたミラールは、ゆっくりと顔を上げた。どこへともなく歩き出そうとした彼の耳に、足音が飛び込んでくる。
彼は首をめぐらせてそちらを見た。闇に邪魔をされて誰かはわからないが、揺れる小さな明かりと共に駆けてくる姿が見える。
この暗さでは確かめようもないが、ウォルムであるような気がする。逃げよう、と彼は思ったが、なぜか走り出すことはしなかった。
ミラールは再び俯き、長い溜息をついた。
「こんなとこにいたのか」
耳慣れた、低い唸り声のような溜息を耳に留めたウォルムは歩を緩めた。
角灯の明かりに照らされ、ミラールは目を細めた。
「どうしたんだよ」
そう言って近づいてくるウォルムの顔には戸惑いの色しかない。それに気付いたミラールは、目を数度瞬かせ、彼の顔をまじまじと見つめた。
「すげえ探したんだぞ、もう」
ウォルムは無造作に彼の首筋をぽんと叩いた。
『あ、ああ』
どう反応していいかわからず、彼はただ困ったような顔でウォルムの顔を見続けた。
そんなミラールの顔を見もせずに懐を探ったウォルムは、先ほど男から渡されたものと思しき小さな袋を取り出した。
金属が触れ合う音が、静かな夜の空気の中に響く。
ミラールは怪訝そうな表情を浮かべ、彼の手を見守った。
「ほら」
袋の口をあけ、彼は中身を掌にあけた。
「鈴がついてるのはうるさそうだって言ってたから」
転がり出てきたのは、いぶし銀の角飾り。対になったそれは彼の掌で、澄んだ音をたてた。
ウォルムは手を伸ばし、それをミラールの白い角にはめた。そして、満足そうに数度頷く。
「やっぱり良く似合うよ」
『……馬鹿かお前は』
ミラールは、ようやくそれだけを口にした。
「あんまりじゃないか、それは」
好意を言下に切り捨てるような言葉に、ウォルムは軽く口を尖らせてみせた。もっとも、ミラールがこのような反応をするのはいつものことであると理解しているせいか、傷ついた様子はない。
『金がないと言っていたくせに』
「無くたって困らないよ。何か仕事探せば済む。ここしばらくの路銀を稼ぐだけならそうたいした事じゃないさ」
あくまでも明るく、そして裏のない彼の様子に、ミラールの胸は疼くように痛んだ。
知らず知らず、口から微かな唸り声が漏れる。
自分の早とちりが恥ずかしい。彼は当たり構わず火を吐き出したいような思いに駆られた。紛らわしいことをしたウォルムが悪いと心の中で呟いてみても、勘違いで迷惑をかけたのは事実なのである。
しばしの逡巡の後、彼は諦めたように小さく頷いた。
『……すまなかった』
その言葉は、囁くような弱い調子で発せられた。
「ん? なにか言ったか?」
角灯を掲げ、満足そうに角飾りを眺めていたウォルムは手を下ろして聞き返した。
『なんでもない』
「もう一回」
憮然とした顔で答えるミラールに、にやりと笑ってみせ、ウォルムは聞えなかったと付け足した。
『聞えていただろう』
「なんのことかな」
とぼけたような口調で言い、笑みを浮かべたままのウォルムは彼に背を向けた。
聞こえていないわけがない。そう言ってミラールは、頭の後ろで手を組んで空を見上げるウォルムをにらみつけた。
「そう怒るなよ」
くるりと振り向いたウォルムが、彼の首筋を宥めるように数度叩く。
『怒ってなどいない!』
「わかったわかった」
なおも笑みを消さないその顔を見たミラールは、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
夜の風が、厚く垂れ込めていた雲に切り目を入れた。鋭利な刃で切り裂いたような細く広い隙間から、閉じ込められていた月光が差し込む。
「今夜はもう降らないな」
空を見上げたまま、ウォルムは呟いた。
『ああ』
ミラールがいつものように素っ気無い声で答え、小さく息を吐く。
その横顔にちらりと視線をやり、ウォルムは微かな笑みを浮かべた。それに気付いたミラールは彼を軽く睨むと、無言のまま、少し速い足取りで歩き出した。
「待てよ、ミラール」
まだ乗ってない、と文句を言いながらウォルムは遠ざかろうとする騎龍の後ろ姿を追った。
10000Hitキリ番リクエスト作品です。
「ウォルムに不器用に謝るミラール」というリクエストで書かせていただきました。