花の散る丘



 青年を乗せた騎龍は、町のすぐ傍にある小さな丘へと続く道を静かに登っていた。
 普段ならばくだらないことで話し掛けてくるはずの青年が一言も口をきかないことに違和感を覚えながら、騎龍は夕暮れの紅の中を歩き続けた。
 ほんの小さな丘のことである、彼はすぐに頂上へと辿り着いた。
『ついたぞ、ウォルム』
 青年の心に直接語りかける。彼、ミラールは、実のところ騎龍ではない。常の騎龍となんら変わらぬ外見だが、彼は人と騎龍、二つの姿を持ち、騎龍の上に立つべき種族……人間の間ではとうに伝説の存在となっている人龍族である。人の心に直接語りかける力は、人龍族固有の能力だ。
 彼の呼びかけに、答えは返ってこなかった。
 ここに連れて行ってくれと頼んだのはお前だろう、と騎龍の言葉で毒づく。
 もう一度呼びかけようとして、彼はふと気付いた。
 背から伝わる、微かな振動。押し殺したような嗚咽。
『ウォルム?』
 慌てて声をかけるが、やはり返事はない。
 軽い衝撃で、ウォルムが自分の背から飛び降りたのを知り、彼は首をめぐらせた。
 青年は肩を落とし、力のない足取りで数歩を歩むと地に膝をついた。
『どうしたと言うのだ』
 相変わらず返事はない。
 町に入るまでは、あんなに機嫌が良かったというのに、一体どうしたというのだろう。
 ミラールは、膝についた手に涙を零すウォルムの横顔に、途方に暮れたような視線を注いだ。


 四半刻ほど前のことである。鼻歌を歌うウォルムを背に乗せたミラールは左手に小さな丘がある辻で街道を外れ、町の入り口へとさしかかろうとしていた。
『やけに機嫌がいいな、何かあったのか?』
「この町には友達がいるんだ」
 調子外れの鼻歌を止め、友人と久しぶりに会うのが心底嬉しくてたまらないとでもいうような顔でウォルムは答えた。
『定宿にしていたところの店の者か?』
 またか、とミラールは小さく鼻を鳴らした。そういう性質なのか、ウォルムが滞在したことのある町には必ずといっていいほど「友人」がいる。長い間訪れていなくても彼のことを覚えている友人があちこちにいるということは尊敬できるが、こうも多いといっそ呆れてしまう。
「いい奴なんだぜ。恋人も可愛いしさ。もう結婚したかなあ。もしかしたら子供の一人もいるかもしれないな」
 後半はほとんど独り言といってもいいような調子で呟かれたので、ミラールは再び鼻を鳴らし、前を見つめて歩くことに集中することにした。
 ウォルムからは再び鼻歌が漏れ出している。合いの手を入れるように鞍の端を叩きながら、彼は町に入るまで歌い続けていた。
 

 規模はそう大きくないが、領主の館がそばにあるその町は、中々の賑わいを見せている。
 夕暮れ時も近い市場には、売れ残りの品物と、少しでも安く買い物を済ませようとする客、そしてこの日最後の喧騒が溢れていた。
 辺りの声にかき消されないよう大声で値切る客に、怒鳴るような調子で答えを返す店主、人ごみを掻き分けながら家路を急ぐ買い物客、今日の売り物が全て捌けたとみえて既に帰り支度を始めている店もある。
 ウォルムはミラールの背から降り、手綱をとってその賑わいの中へと入っていった。
 前に来てから一年以上あいているというわりに、歩みに迷いはない。
「領主に孫が生まれたってさ」
 小耳に挟んだ噂を、ミラールの耳へと注ぎ込む。
『どうでもいいことだ』
 ミラールは呆れたような調子で答えた。たまにはもう少し役に立つことを聞きつけてこい、といつも言うのだが、ウォルムはお構いなしに毎度毎度くだらない噂ばかりを喧騒の中から拾いあげてくる。
「跡継ぎが生まれたってことで領主は大喜びらしい」
 ウォルムの続報には答えを返さず、ミラールはただ黙々と歩き続けた。人里離れた隠れ里のようなところで育った彼は、ウォルムと違って人ごみがあまり好きではない。
「お披露目はきっと祭りになるだろうな。あと数日後だったら参加できたかもしれない」
『人が群れて騒ぐだけではないか』
 祭りというのはもっと荘厳なものであるべきだ、とミラールは呟いた。かつて一度だけ、人の祭りの場に居合わせたことがあるが、騒々しすぎて頭が痛くなるような思いをしたものである。
「めでたいことなんだから、騒いだっていいだろ」
 賑やかなことの好きなウォルムは、そう言ってミラールの首をぽんぽんと叩いた。ミラールの言葉は他の人間には聞えていないため、ウォルムの声は怪しい独り言としか言いようのないものだが、市場の喧騒の中に溶け込んで、辺りには響かない。
『日常からしてこの騒ぎだ、祭りともなればどれだけひどいことか』
 ミラールは少し不快そうな表情で頭をぶるっと震わせた。


 喧騒を抜けて少し歩いた先にその店はあった。
 町の空気に磨かれた年季の入った頑丈そうな壁に、分厚い、どこか無骨な扉。どこにでもある酒場の佇まいではあるが、周りの店に比べて簡素な看板が主の人柄を表している。
「お前はどうする?」
『外にいる』
 時折は人の姿でウォルムと共に店に入ることもあるが、それは大体の場合、彼が話し相手を欲している時である。友人がいるというのであれば、わざわざ自分がついていくことはないだろうと判断したミラールはそう答えた。
「そっか……じゃあ、先にどっか宿とってそこで待っててもらった方がいいか?」
『構わん。久しぶりの再会なのだろう? さっさと行け』
 ミラールは、促すかのように首を軽く振ってみせた。


 ウォルムは扉を開け、夕暮れ前の強い日差しに慣れた目には少し薄暗く見える店に入った。
 夕暮れ前であるためか、客はまだ数人しか入っていない。
 そして、彼にとって残念なことに、意気投合し、幾夜も飲み明かした下働きの青年、テーネの姿がなかった。
 彼に会うことを一番の楽しみにしていたウォルムは小さく息を吐いた。休みでもとっているのだろうかと少し残念そうな顔のまま、店の奥に視線を向ける。
 カウンターの向こうには、懐かしい店主の顔。酒飲みであることを証明するかのような赤ら顔の中年の男である。
「久しぶり。おやっさん、元気にしてたか?」
 ウォルムはまるで数週間しか時が経っていないかのような口調で店主に声をかけた。
 カウンターに座っていた一人の客が懐かしそうな表情を浮かべる。ウォルムはその男に向かって小さく手を振った。
「……誰かと思ったら、ウォルムじゃないか」
 彼がこの町に半月あまり滞在していたのは一年以上も前だというのに、店主はウォルムの顔と名前を覚えていた。
「元気そうで何よりだ」
 ウォルムはゆったりとした笑顔で勧められた椅子に腰を降ろした。
「またしばらくいるのか?」
 店内に背を向け、彼がいつも頼んでいた麦酒を用意しながら店主は尋ねた。
「いや、今回は寄っただけだから明日には発つよ」
 答えて、出された麦酒を一口すする。
「そうか」
 ウォルムはそう言ったきり口をつぐむ店主の横顔に、かすかに訝しげな色を浮かべた視線を注いだ。記憶にある彼は、もっと口数の多い男だった。気のせいかもしれないが、憂いを帯びているように見えることも気にかかる。
 疲れてでもいるのだろうかと考え、ウォルムは麦酒の入ったコップを抱え、店主から視線を外して店内をちらりと見渡した。
 前と変わらぬ質素な店内も、心なしか寂れた空気が漂っているように思える。客が少ないせいだけではないだろう。
 いつも笑顔で働いていた店主の娘の姿がないせいもあるかもしれない。そう考えたウォルムは、他の客から注文を受けて厨房に下がろうとしている店主に尋ねた。
「アルフェはどうしてる? 今日は休み?」
「あいつぁ嫁にいった」
 首を捻り、顔だけをウォルムに向けて店主は答えた。
「そっか、そりゃおめでとう」
 ウォルムは、麦酒のコップを軽く掲げて見せた。
「ああ」
 店主は気のない返事を返し、そのまま厨房へと入っていった。
 恋仲だったテーネと結婚したのならば、二人そろってここにいてもおかしくないはずである。よそに店でも出したのだろうか。そんなことを考えながら、掲げたコップの酒をあおったウォルムの袖が軽く引かれる。
 ウォルムはコップに口をつけたまま、視線をそちらへやった。
 袖を引いていたのは、ウォルムが店に入ってきた時、懐かしげな顔をしていた常連客である。
「アルフェのことはここじゃ禁句だ」
「駆け落ちでもしたのかよ」
 もしそうならば、店主が寂しそうな様子であるのもわかる。しかし、テーネは下働きではあったが真面目な青年だし、店主も彼のことを気に入っていたようだった。二人の結婚を認めないとは思えないのだが。
 ウォルムの眉が、微かに寄せられるさまを見て、彼の袖を引いた男は軽い溜息をついた。
「領主の息子に見初められて、無理やり嫁にとられたのだよ」
 一瞬呆然とした後、ウォルムは思わず立ち上がった。
「……じゃあ、テーネは? テーネはどうしたんだよ!」
 男は、食って掛かるような勢いで問うウォルムから視線を外した。
「町を出て行ったよ。見ちゃいらんなかったね」
 そう答えて自分の席へと戻る男の背を見詰めながら、ウォルムはしばし呆然と立っていた。
 彼の知るテーネは一本気な青年だった。権力を盾に恋人が奪い去られようとするのを、抵抗もせずに黙って指をくわえて見ているような性格ではない。
 その彼が駆け落ちするでもなく、ただ一人旅立ったということは、よほどの事情があったのだろう。
「おやっさん、勘定ここ置くよ。宿とってからまた来る」
 ウォルムは腰につけていた小袋から数枚の銅貨を出し、店主の返事を待つことなく店を出た。


 退屈顔で、家路を急ぐ人々を見ていたミラールは、扉の開く音に気付いて顔をそちらにむけた。
『早かったな。友人とやらはいたのか?』
 ウォルムは返事もせずにミラールの背に乗った。
「……ミラール、町外れに丘があったよな。あそこまで連れてってくれ」
『どうした?』
 ミラールは訝しげな表情で首を捻ったが、逆光に邪魔をされ、ウォルムの表情をうかがうことはできなかった。
「いいから」
 常にない強い口調に、ミラールは軽い溜息と共に歩き出した。
「こんなとこで騎龍に乗ってんじゃねえ」
 荷物を手一杯に持つ男が、すれ違いざまに声をかける。邪魔だ、という声もどこからか聞えてきた。
『ウォルム、降りなくていいのか?』
 眉間に皺を寄せながら尋ねたが、返事はない。ミラールは諦めて、罵声を聞き流すことにした。幸いどの文句も、人波に押し流されてすぐに遠ざかっていく。
 ようやく人ごみを抜けだしたミラールは、ほんの少し歩みを速めた。


「……あんまりだ」
 ウォルムは、目頭から零れ落ちる涙が落ちた手を、堅く握り締めた。テーネが、自分に対する脅し程度のことで、アルフェを諦めたわけがない。あんなに仲の良かった二人なのに。
 店や、店主を盾にとっての脅しでも受けたのだろうか……だとしたら、許せない。しかし、何とかしてアルフェを取り戻したとしても、テーネはもう町を出てしまっているし、そもそも自分の力程度では、小なりと言えども領主の息子の嫁を奪い去るような真似はできないだろう。
 何もできない自分が悔しくて、ウォルムは再び熱い涙を零した。
「ちくしょう」
 丘の上にただ一本だけ生えている木に、拳を叩きつける。鈍い痛みは、何の慰めにもならなかった。
 風に揺らぐ木を透かした夕陽が、まるで風に舞い散る花のようにはらはらと彼の横顔に零れ落ちた。


 太陽がゆっくりと姿を消し、空が紫紺に染まる。
 少しずつ冷えていく風に髪をなぶらせながら、ウォルムは静かに涙を零し続けていた。
『ウォルム』
 初めて見る彼のそんな姿を、戸惑いの視線で眺め続けていたミラールは、思い切って呼びかけた。
 頭を少しあげ、肩越しに彼を見るウォルムの目には、まだ涙が滲んでいる。
 なぜ泣いているのかをまず尋ねるべきか、それとも落ち着いてからの方がいいのかとしばし悩んだ末、ミラールはゆっくりとした口調で語りかけた。
『何があったのか知らんが、泣くことでは何も解決しない』
「どうやっても解決しそうもないから泣いてんだよっ。そもそも泣きたくて泣いてるわけじゃねえ」
 鋭い視線と共に、叫ぶような声が返って来る。
 先に尋ねるべきであったようだ、と思いつつもミラールは更に言葉を接いだ。
『だからといって人前で泣くな』
 まだ弟が幼い頃、泣いている彼をあやそうとして、「兄上が怒っている」と更に大泣きされたことを思い出したミラールは、表情を柔らかにしようと努めた。
 しかしウォルムは彼の顔から視線を外し、再び自分の拳へと視線を落とした。
「だからこうして人のいないところに来てるだろ」
『私がここにいる』
「……お前は人じゃねえ」
 はき捨てるように呟く声を聞き、ミラールは再び眉間に皺を寄せた。悪意があるわけではなく、人龍族を貶めているわけでもないのはわかっているのだが、酷いことを言われたような気になるのは止められない。
 ミラールは眉間に皺を寄せたまま、後ろ足で軽く地面を引っかいた。
 それに気付いたウォルムははっきりと顔をあげ、ミラールを振り返った。
「ごめんな。お前にあたっても仕方ないってのに」
『別に気にはしていない』
 わざとそっぽを向いて答えながらミラールは、落ち着きを取り戻したようだし、もう大丈夫だろうと小さく息を吐いた。
「そっか……」
 再び俯いたウォルムの目から、涙はもう零れなかった。


 その後も、ウォルムはしばらくそのままの姿勢で地を見詰めていた。
「子供が生まれて、アルフェは幸せかな。少しは幸せなのかな」
 ウォルムは祈るような気持ちで呟いた。それでテーネが救われるわけではないが、少なくともアルフェだけでも、少しは幸せであって欲しい。
『私は、子を持てるというだけで羨ましいがな……』
 彼の生まれた里には子を為せる女はもういない。滅び行こうとしている里を思えば、子を為し、種族を繁栄させることができる者はそれだけで幸せだと思うが、それが当たり前である人間にとってはまた別の感慨もあるだろう。そう考えたミラールは語尾を濁した。
「……町に戻ろう」
 やがてウォルムはそう言ってミラールの背に乗った。
 無言のまま星明りを頼りに歩き出したミラールは、丘を下りきったところで足を止めた。
 背にかかるウォルムの体重がふらふらと揺れている。耳を澄ませば、小さく、規則的な寝息。
 泣き疲れて眠っているのだろうか……ならば、起こさないようにしてやろう。心の中でそう呟くとミラールは、道の向こうに広がっている町の灯りをめざし、いつもよりゆっくりとした調子で歩みはじめた。


 7007hitキリ番リクエスト作品です。
 「泣くウォルム、慰めるミラール」というリクエストで書かせていただきました。
 杉様の許可を得て掲載させていただいております。