雨の降る朝



 だからあれほど言ったのに。
 ミラールは溜息と共に視線を下げた。
 その先には、玉のような汗を浮かべるウォルム。きつく閉じられた目、厚手の毛布を通してさえわかる体の震え、荒い呼吸、上気した頬。声を掛けても答えは返ってこない。
 咥えた布で額を拭うと、微かな身じろぎだけが返ってくる。
 ミラールは、再び溜息をついた。


『この雨の中で野宿するつもりか?』
 ミラールは、呆れたような調子で問い掛けた。鬣が雨に濡れて気持ちが悪い。
 彼が外見通りただの騎龍であれば、雨ざらしでも大して気にしないところだが、彼は人と龍、二つの姿を持つ人龍族である。野生の騎龍と違って洞窟暮しであるため、雨の中の野宿には心弾まないものがある。
 しかも、彼の背に乗っている同行者、ウォルムの体調はどう考えても良くない。背から伝わってくる体温は、いつもよりも随分高いようだし、体重のかかり方がいつもと違う。どうやら姿勢を保つ体力もないようだ。
「最近何もしてないから金の残りが少ないんだよっ」
 ウォルムは力のない声で答えた。ミラールと、人龍族の娘を見つけることが出来たら彼の里に伝わる宝剣をもらうという賭けをして以来、報酬の出る仕事はあまりしていない。当然のこととして財布の中身は減る一方である。
『金なら私が持ち合わせている』
「それはお前んとこの里の人たちが集めてくれた路銀だろ。大事にしまっとけ」
 滅び行こうとしている里のために旅立つ若長へと里の者たちが差し出したのは、先祖代々受け継いできた宝飾品など思い入れのある品ばかりだった。ミラールが持つ金は、その一部を換金したものである。そうと知っていながら、自分のためにその金を使わせるわけにはいかない。
 ウォルムは大きく息を吐いて姿勢を正した。体の丈夫さには自信がある。一晩眠れば多分大丈夫だろう。
『しかし……』
「これくらい平気だって」
 言を遮って強がりを言うウォルムに不満の意を表すため、ミラールは軽く鼻を鳴らした。
「平気だって言ってるだろ。だてに一人で旅してたわけじゃない」
『後悔しても知らんぞ』
 なおも言うウォルムに、ミラールは捨て台詞を吐いた。いいかげんそうに見えて、彼には自分の意見を曲げない頑固さがある。おそらくこれ以上何を言っても聞き入れないだろう。
 無理をしているような鼻歌が、背から聞こえてくる。
 ミラールは軽く肩を竦めるような仕草をしたきり、反論するのを止めた。


 昨日の夕方交わしたやりとりを思い出したミラールは、小さく溜息をついた。
『何がこれくらい平気、だ』
 呟いて、彼の傍らに腰を降ろす。木々のおかげで風雨を受けにくい場所だが、このまま放っておけばウォルムの体調は悪くなる一方であるはずだ。
 ミラールは首を廻らせて、消えかけている焚き火に息を吹きかけた。吐いた息が空中で炎に変わり、焚き火にほんの少しの勢いを与える。しかしこの気候では、そんなことをしたところで長くは持たないだろう。
『ふむ……』
 鼻を鳴らして立ち上がる。この状態のウォルムを一人で放っておくのは気が咎めるが、このまま傍についていたところでどうしようもない。しかし、意識を失っている人間を背に乗せることは難しい。
 昨日通り過ぎた町まで行けば、薬師の一人くらいは見つかるだろう。ここまでつれてくるしかない。
 振り返り、ウォルムの様子を確かめてからミラールは静かに走り出した。


 町はもう目の前、というところでミラールは足を止めた。
 町に入る前に人の姿に変わらなくてはならない。乗り手のいない騎龍が町をうろついていたら、捕らえられて売られる可能性もあるとウォルムに言われている。
 ミラールはあたりを見回し、人気がないことを確かめてから、人の姿をとるための言葉を呟いた。
 白い靄のようなものが彼を包む。数瞬が経ち、それが晴れた後には一人の青年。くすんだ金の髪に深い緑の瞳を持つ白皙には、騎龍の長である人龍族にふさわしい気品が漂っている。これが、ミラールの人としての姿である。
 ミラールは急ぎ足で町の中心部へと向かった。
 早朝のこととて人通りは少なかったが、全くないというわけではなかった。
 通りすがった若い娘に声をかけ、この町に薬師か医者はいないかと尋ねる。
「薬師様がおられます。ただし、この町に住んではいらっしゃいませんが……」
 見慣れない青年の問いに、娘は彼の長身を見上げ、警戒と憧れの入り混じった表情で答えた。
「どこに住んでいるのだ?」
 娘の態度には気付かないまま、ミラールは尋ねた。
「町から少し離れた一軒家で、一人暮らしをなさっています」
「場所を教えてくれ」
 どれくらい離れているのだろうか……まあ、龍に戻って一駆けすればさほどかからないだろうが、などと考えるミラールに娘は案内を申し出たが、彼は素っ気ない声でそれを断った。人がいるところで龍に戻るわけにはいかない。人間にとって、人龍族はすでに伝説の存在なのである。
 やや残念そうな表情を浮かべながら、娘は丁寧に道筋を教えた。
「ありがとう」
 そう言って踵を返すミラールの後姿をしばし眺めてから、娘は仕事に向かうべくやはり足を速めて立ち去った。


 先程と同じように人気の無いところで龍に戻り、教えられた場所まで駆けてきたミラールは、薬師が住むという一軒家を目の前に足を止めた。
『どうしたものかな……』
 人の姿でなければ、薬師に事情を説明することはできないが、それでは彼をウォルムのところまで運ぶことはできない。一旦立ち去って龍の姿で迎えに来るのも不自然だろう。
『ふむ』
 しばし悩んでいたミラールは、小さくひとつ息を吐き、そのままの姿で扉の前に立った。納得させることができなければ、そのまま連れて行けばいい。寝込んでいるウォルムを見れば、きっとわかってくれるだろう。
 小さな前足で、そっと扉を叩く。しばらくの後、扉の向こうで物音がした。
「誰じゃな、こんな早朝に」
 扉が細く開き、老爺の顔が覗く。
 その隙間に鼻先を突っ込み、ミラールは扉を開いた。薬師は一人暮らしだと娘は言っていた。となれば、彼がそうなのだろう。なんとしても、彼を連れ出さねばならない。
「……騎龍がなぜここに? 主とはぐれでもしたのかね」
 老人はそう言ってミラールの鼻を撫でた。
 その老人の衣を、歯を立てないように咥えて引っ張る。優しげな表情をしている彼ならば多少無理に連れて行っても、ウォルムを見ればきっとわかってくれるだろう。
「これこれ。何をするのかね」
 老人はミラールに引っ張られるまま、数歩外に出た。
 ミラールは彼を見つめ、その視線を自分の背の方へと移した。
「乗れとでも言っているのかな? しかし、私はお前の主ではないよ」
 いいから乗ってくれ、とミラールは心の中で呟いた。
「困ったねえ」
 困っているのはこっちだ、と八つ当たり気味のことを考えながら、ミラールはなおも老人の衣を引いた。
「はぐれた主を探して欲しいのかい?」
 ミラールは小さくひとつ溜息をついて、老人の心に直接語りかけることにした。驚かせないように、できるだけ小声で囁きかける。
『私の背に乗ってくれ。あなたが必要なのだ』
 老人は、慌ててあたりを見回した。しかし周囲には誰もいない。
「お前、なのか……?」
 ミラールは問いかけには答えず、ただ老人をまっすぐ見詰めた。
「わしの助けが必要なのじゃな?」
 彼がさほど驚かなかったことに内心安堵の息をもらしながら頷く。
「ちょっと待っておれ。支度をしてくる」
 老人は踵を返して家に入り、すぐに袋を下げて出てきた。鐙に足をかけ、ミラールの背に上ろうとするが、なかなかうまく乗ることができない。
 その様子に気付いてミラールは、尾を使って老人を背に乗せた。
「ほう。賢いのじゃな、お前は」
 老人はミラールの首筋を軽く撫で、手綱を手に取った。


 ミラールは、老人が振り落とされぬよう気遣いながら駆けた。朝から駆け続けているので少々疲労感があるが、この親切な老人を雨に晒し続けないためにも、急がなくてはならない。
 ウォルムのいる、昨夜の野宿場所の傍まで来て、彼はようやく速度を落とした。
 眠っている彼を起こさないように、静かに歩み寄り、背の老人を振り返る。
 ウォルムは、出てきた時と変わらず苦しそうな表情であった。焚き火も早や消えかかっている。
「彼がお前の主というわけか」
 そう言って降りようとする老人を、先程と同じように尾で助ける。老人が、ウォルムのことを自分の主だと思っているのは気に障るが、それを咎めている場合ではない。
「ふむ」
 老人はかがみこんでウォルムの額に手を当てた。
 ミラールは、ウォルムの状態を見ている老人を心配そうな目で見つつ、ゆっくりと地に座った。安堵したせいか、どっと疲れが出てくるのを感じる。
「ひどい熱じゃな。さてさて……」
 袋を漁り、老人は幾種類かの薬草を取り出した。昨日ウォルムが夕食を作ったままになっていた鍋をちらりと見る。雨があらかたその中を洗ってしまっていると見て、老人は薬草を溜まった水を捨てただけの鍋へと放り込んだ。その鍋を勢いのない火にかけ、比較的乾いていると思われる粗朶を数本、焚き火へと放り込む。
「大丈夫じゃよ」
 首を上げ、呆れたような目で見るミラールに気付いて、にっこりと微笑んで見せる。
 ミラールは半信半疑の表情のまま、首を下ろした。
 しばらく後、鍋から微かに湯気が立ち始めた。火はもう消える寸前といった風情である。
 ミラールは、ウォルムの横で木にもたれ、転寝をしている老人を鼻先でつついた。
 眠そうな目をこすりながら、老人は鍋の中身を一匙掬って口へと運んだ。
「……もういいかの」
 漂ってくる匂いに、ミラールが眉間に皺を寄せる。彼の里に伝わる煎じ薬より、数倍は匂いがきつい。
 もう一匙掬い、老人は、眠ったままのウォルムの口を器用にあけさせてそれを流し込んだ。
 微かに噎せるウォルムの口に二匙分の薬を流し込んで、老人はゆっくりと立ち上がった。
「あとは寝かせておけば良い。若いから、回復もすぐじゃろうて」
 ミラールは立ち上がり、黙って頭を下げた。
「さて、送ってもらえるかな?」
 老人はにこにこと笑いながらミラールを見上げた。


「お前のような騎龍がいて、お前の主は幸せじゃな」
 桶に汲まれた水を飲んでいたミラールは、きょとんとした顔で老人を見上げた。
「何、心配しなくとも彼はすぐ治るよ。今日は一日ついていてやるといい」
 老人はミラールの鬣をそっと撫でた。
 満足するまで水を飲んだミラールは、ふと思い立って自分の腕にはめていた輪を一つ差し出した。
「……本当に賢い子じゃの。しかし、これは受け取れんよ。元はと言えばお前の主のものだ、勝手に他人に譲ってはいかんだろう」
 ミラールは不満げな表情で鼻を鳴らした。確かに老人から見れば、騎龍の装身具はその主のものだろうが、この腕輪はれっきとした自分の持ち物である。
「たいしたことをしたわけではない。困ったときはお互いさまじゃ、気にするな」
 老人の言葉に、ミラールは素直に頭を下げた。おそらく頑張ったところでこの老人が腕輪を受け取ってくれることはないだろう。
「ではな。気をつけてお帰り」
 そう言って家に入る老人の姿を見届けてから、戸口にそっと腕輪を置く。いくら気にするなと言われても、助けてもらって礼をしないわけにはいかない。老人は困惑するかもしれないが、もはや会うこともないであろう旅人にそれを返すことはできないと思ってくれるはずだ。
 ミラールは満足げに頷くと、軽やかな足取りで駆け出した。


「口の中が苦い……」
 しかも、周りが臭い。ようやく目を覚ましたウォルムはそう呟いて半身を起こし、傍らに眠るミラールを見た。
 ミラールは顔を上げず、ただ視線だけでウォルムを見た。彼の後ろで山に沈み行こうとしている夕日が眩しい。
「何したんだよ、ミラール」
 疑うような目でこちらを見ているウォルムに、鼻を鳴らしてそっぽを向く。彼の声が随分と力を取り戻しているように聞こえたことに安堵している自分を不快に感じて、ミラールは眉間に皺を寄せた。


 5000hitキリ番リクエスト作品です。
 「弱るウォルム」というリクエストで書かせていただきました。
 ミーさんの許可を得て掲載させていただいております。