闇の射る矢


 時折聞こえる小鳥の囀りと、さやかな風に触れあう木々の梢の囁き以外に音はない森の深閑とした空気を裂いて乾いた音が響く。騎龍の大きな足が、落ち葉や下ばえを踏みしだく音である。
「何もねえ森だなあ」
 騎龍の背に揺られていた青年は、小さな溜息と共に呟くと、手綱を手放して大きく伸びをした。
 まだ森の中心部から遠いせいか、離れたところから見た印象よりも木々はまばらで、騎龍が歩ける空間が確保されている。
『森に何を期待しているのだ、お前は』
 青年の心に、呆れたような調子の声が響く。彼が乗っている騎龍、ミラールの声である。人と龍、二つの姿を持つ人龍族であるミラールが龍の姿を取っている時は、人の言葉を話すことが出来ない為、こうして彼の心に直接語りかけてくる。
「何をって言われると困るんだけどな。人ならざる者が住むなんていう伝説がある森なんだから、普通の森と違う何かがあってもいいかな、と思ってさ」
 手綱を離したまま、ウォルムは頭の後ろで手を組んだ。手を離していても、乗騎がミラールである限りは心配はない……彼の機嫌を損ねない限りは。
『人ならざる者、か。曖昧な表現だ』
「人龍族だといいな」
 そう言ってミラールの首筋を軽く叩く。騎龍は軽く鼻を鳴らした。
 騎龍族の長である人龍族の中では比較的大きかった里で育ったミラールだが、その里に今いる若人は彼と彼の弟のみである。子を為すことができる若い娘を見つけることができなければ、確実に里は滅びるだろう。ミラール自身はその定めを受け入れるつもりでいるが、里の若長という立場である彼は、自分の気持ちに従って運命に流される訳にはいかなかった。しかし、里の再建を担うべき身と自覚してはいても、外界……特に今、世界を支配していると言っても良いであろう種族である人間たちとのかかわりを絶った里に生まれ育った彼には取るべき手段が思いつかず、ただ里の老人たちの気持ちを憂慮するばかりの毎日を過ごしていた。
 里に迷い込んだ青年、ウォルムと出会ったのはそんな折だった。ミラールは、人界に伝わる伝承に詳しい彼と一つの賭けをした。子を為すことができるような人龍族の娘を見つけることができたら、里に伝わる宝剣を譲り渡すという賭けである。ウォルムが嫁探しを諦めた折には、彼を里の下働きとすることになっている。


『…………』
 しばしゆっくりとした歩調で森の奥へと進んでいたミラールは、森の木々が醸し出すそれとは異なる、気になる香りにふと足を止めた。手綱を放して寛いでいたウォルムが慌てて鞍の前輪を掴む。
 香りは、ある一本の木から漂っているようであった。
 良く見れば、幹に黄褐色の粉で紋様が描いてある。ミラールは、見覚えのあるその紋様に眉を顰めた。
「何かあったのか?」
 ウォルムはミラールの首越しに、彼の見ているものを見ようとしたが、彼の身体に阻まれてうまく見えないことに気付いて飛び降りた。
『引き返すぞ、ウォルム。この辺りの木々に触るな』
「何で?」
 そう尋ねながらも素直に彼の背に戻ろうとしたウォルムは、今まで眺めていた木の下枝を、何の気なしに掴んだ。
『けして木を傷つけてはならんぞ』
「うわっ」
 ミラールの忠告とウォルムの叫び、そして根に躓いて転びそうになった彼が掴んだ枝が折れる音はほぼ同時だった。忠告が響いたのはウォルムの心の中だけだが、他の二つは静かな森に鋭く響いた。
『…………この、馬鹿者!』
 雨が降ればすぐに消えてしまう、粉で描かれただけの紋様である。つけられたのが最近だということは明白だったが、ミラールはこの紋様が付けられたのが遥か昔のことであるように祈らずにはいられなかった。
 しかし彼の願いは空しいものとなった。
 二人の目の前に、足音もなく現れた人影。現れたのは三人だが、森の木々の間からは敵意に満ちた気配がいくつも漂ってきている。
「……まさか、ヌオグ……か?」
 目の前の姿を見て、ウォルムは思わず呟いた。褐色の肌に老人のような白髪、猫のような瞳孔を持つ金色の瞳。そして長く尖った耳と手に持った弓……全てが、彼の知識と合致する。目の前の青年は、伝説に謳われている「森に住む者、ヌオグ」に違いない。
「大地の深奥より生まれ、森に住む者ヌオグの地にて狼藉を働くか! 新参者の人間風情が!」
 ヌオグの青年の怒りは古代語で発されたため、ウォルムに通じることはなかった。
 ミラールは、急いで姿を人間のそれへと変える為の言葉を呟いた。龍の姿を取っている時、同族以外の者と意思を疎通させるためには心に語りかけるしかないのだが、複数を相手にそれをすることはできないためである。
 煙のようなものが彼を包み、そして消える。煙の消え去った後には、くすんだ金の髪と緑の瞳を持つ、白皙の青年が立っていた。これが、ミラールの人としての姿である。
「待て、古き盟友ヌオグの戦士よ」
 相変わらずいい声してやがる。ウォルムは心の中で、やや腹立たしげに呟いた。状況を考えればそのようなことを考えている場合ではないのかもしれないが、彼らの会話が自分にはわからない言葉でなされているため、何もしようがないのである。
「人龍か。何故に人間などと共にいる」
 三人のヌオグの、後ろにいる二人のうちの一人が呟いた言葉に、ミラールは微かに眉を顰めた。遥か古からいる種族の者たちは、新参である人間を馬鹿にしがちである。人龍族も古の種族の一つではあるが、中では人間に近しい。彼らの、馬鹿にしきったような、しかも同行している自分までも貶めるような言い様には腹が立つ。
「しかもなぜそこの人間に狼藉を許した! ここがヌオグの地であることに気付かなかったとでも言うつもりか」
 先頭に立つ青年は、語気荒くミラールに詰め寄った。身なりからみるに、彼はここにいるヌオグの中では一番身分が高いようである。
「もちろん忠告はした。しかし事故は起こるものだ。悪意があってしたことではない。きつく言い置くゆえ、許されよ」
 正直な所、自分の言に従わなかったウォルムを庇うのは馬鹿馬鹿しいと思わないでもなかったが、彼が処分されるのを見るのはおそらく後味が悪い。しかも、それなりに有能な案内人を失うことにもなる。
「何故人間風情を庇う」
 先頭に立つ青年は、頭一つ分ほど大きいミラールを睨みつけながら、吐き捨てるような口調で言った。古い盟友である人龍族が、下賎な種族である人間と共にいるばかりか、それを庇うようなことを言うなどと馬鹿げた行動を取る理由がわからない。
「縁あって行動を共にしている者だ。かように些細な事故で処罰されるのを看過するわけにはいかぬ」
 ミラールはそう口にしてすぐ自分の失言に気付いたが、自分までも蔑むような視線で見る彼ら相手に頭を下げて弁解する気になれず、先頭に立って睨みつける青年に、まっすぐ視線を返した。
「些細なことだと! 所詮血の半分は人か!」
 はたして青年はいきり立った。
 ミラールはその言葉に、今度はあからさまに眉を顰めた。人龍族が人の血を継いでいるわけではない。人と騎龍がそれぞれ人龍族の血を半分ずつ継いでいるのだ。しかし、いきり立つ彼にそのようなことを言っても意味がないだろう。
「人間風情に乗りまわされているような、人龍の面汚しに何がわかる!」
「古の種族の誇りを忘れたか!」
 後ろに立つ二人も、口々に叫ぶ。
 ミラールは苛立ちをあらわにした表情で彼らを見た。閉ざされた里で、若長として崇められて育った彼は侮辱されることに慣れていない。
「我らは騎手を種族で選ぶわけではない。信頼に値する者であればそれでいい」
 大体、乗られているのではなく乗せてやっているのだ、と心の中で呟く。ちらり、と騒動の中心を見れば、こちらの口論などどこ吹く風と言った様子でぼうっとこちらを見ている。何となく庇ってやっているのがむなしくなったが、しかしここまでくれば後には引けない。
「信頼するに値する? ヌオグの森で木に狼藉を働くような者がか? はっ、人龍も落ちたものだな!」
 心底馬鹿にしきったような口調に、ミラールはその切れの長い瞳で、目の前の青年を睨みつけた。
「悪意あってのことか、ただの事故かの区別もつかぬほど目の曇った、ただ過去の亡霊のような掟に縛られるだけのヌオグにはわかるまい」
 その言葉に、ヌオグの青年たちは一斉に弓を構えた。彼らは誇り高い古の種族の中でも戦闘的な種族として知られている。
 ミラールは、舌打ちして自らの姿を龍のそれへと戻した。
『ウォルム、乗れ!』
 心の声でそう語りかけ、突然のことに慌てるウォルムを、器用に尻尾を使って己の背に乗せる。
 その背後から、空を切る鋭い音と共に矢が飛んでくる。ヌオグの矢は正確で、木々を傷つけることなくまっすぐに彼らを目指して飛来した。
『伏せていろ』
 そう言うとミラールはその堅い鱗に鎧われた尾で幾本かの矢を叩き落とした。
「さっすが」
 言われた通り伏せたまま、口笛を吹くウォルムにミラールは呆れたような溜息を漏らした。
 ヌオグたちが、諦めることなくなおも放った矢のなかで、木々を縫うようにして走るミラールに届いた矢は数本であった。その数本は彼の尾に叩き落とされ、またその堅い鱗に阻まれて傷ひとつつけることができない。
 ミラールは、背で楽しそうに鼻歌を歌うウォルムを庇ったことを後悔しつつ森の外まで駆け続けた。


『ここまでは追って来んだろう』
 ミラールは立ち止まり、大きく息を吐いた。その背で、ただ鞍にしがみ付いていただけのウォルムも同じように息を吐く。
「何でこんなことになっちゃったわけ?」
『お主が不用意に木の枝など折るからだ』
 元凶であるにもかかわらず、のんびりとした口調で訳を問うウォルムに、ミラールは怒りとあきれをない交ぜにしたような口調で答えた。
「ちゃんと事故だって言ってくれたんだろ?」
『ああ』
 ほんの少し、後ろめたい気持ちを隠しながら答え、ミラールは首を捻ってウォルムに水を要求した。
「やっぱヌオグって本当に森の守護者なんだなあ……」
 いつもの仕草に応えて水筒の蓋を開け、皿に入れて差し出しながら呟く。伝説でしか知らなかった種族を目の当たりにした興奮が、今更ながら沸き起こってくる。
『…………何をのんきなことを言っている。ヌオグと人龍は古き盟友だというのに、お主のせいで私は二度とこの森に入れんではないか』
 水を飲み終え、ミラールは軽い溜息をついた。やつあたり気味だという自覚はある。自分がもう少し辛抱していればここまでの事態にはならなかったはずだ。しかし、能天気なウォルムのこと、この程度の言葉は気にもしないだろう。
「悪かったよ。庇ってくれてありがとな」
 頭を軽く掻きながら、ウォルムはあいている方の手でミラールの首筋を軽く叩いた。
『…………わかっているなら、いい』
 思いがけない言葉に、ぶっきらぼうに返事を返す。事態が全て彼のせいであるかのような発言をした自分が恥ずかしく思えて、ミラールはふい、と横を向いた。
「照れてんのか?」
 ウォルムはそのさまを見てにやり、と笑った。
『照れてなどいない!』
 ミラールは苛立った様子でニ、三度奥歯を噛み鳴らした。たとえ一瞬であっても罪悪感を感じた自分に腹が立つ。
「さーて、次の森にいくかぁ」
 噛みつくような口調のミラールには構わず、ウォルムは彼の背に座りなおした。
『これにこりたら少しは私の言うことに従え』
「どうかな」
 からかうような笑みを含んだような声。ミラールは何も言わずに身体を揺すった。
「わかった、わかったって」
 慌てて、放していた手綱を掴み、全く反省の色のない口調で謝る。ミラールは不快そうに鼻を鳴らしたが、それ以上は何も言わずに歩き出した。
「次こそ人龍族の里だといいな」
『お前の案内はもう信用できん』
 そう言いながらも、街道に向けて歩き出す。
「他に伝手もないんだろ? さ、行こうぜ」
 龍の言葉に滲む皮肉の色を気にもしない様子で言い、手綱を掴みなおす。
 ミラールはやれやれ、と軽い溜息をついて足を速めた。
 暗い森は、いつまでも二人を見つめ続けていた。


 3888hitキリ番リクエスト作品です。
 「エルフ」というリクエストで書かせていただきました。
 ヌオグという種族は前から設定してあったのですが、エルフのイメージで作った種族だったので、
 そのままそれを出させていただきました。
 外見がダークエルフっぽいのは私の趣味です。