星の凝(こご)る森


「やっぱり言い伝えは所詮言い伝えに過ぎないのかなあ……」
 青年は呟き、いい加減くたびれた足を休めるべく、手近にあった岩に腰をかけた。大きく伸びをして、柔らかな茶色の髪をかきあげ、小さな欠伸をもらす。
 彼は、汗止めのために額に巻いてある布を外し、腰に下げた袋をかき回して見つけた新しい布と取り替えた。
 もう半日はこうして歩き回っているだろうか。しかし、探しているものはまだ見つからない。
 彼の探し物、それはこの辺りの言い伝えに良く出てくる「光の湖」と呼ばれる場所である。仄かな光を放つ、小さな湖だといわれているそこは、宝が眠っている、女神が現れて願いを聞いてくれる、精霊たちと話をすることができるなどと、言い伝えによって様々ではあるが、良いことの起きる地として登場している。
「光の湖」はこの森のどこかにある、と土地の長老たちは口を揃えて言う。しかし彼らはまた、口を揃えてこうも言う。この森は聖地でもあり、また入った者が無事に出てきたことがないことから、土地の人間は入らない、と。
 もちろん彼は、その話の全てを真に受けたわけではない。
 しかし、これだけ多くの話に出てくるからには何かがある地なのだろう、という好奇心が、彼にこの森を歩かせているのである。もっとも今のところ「光の湖」はおろか池一つ見つけることができずにいる。
 今日はもう帰るかな……、そう考えて青年……ウォルムは立ち上がって後ろを振り向いた。
「あれ……?」
 思わず、呟きが唇を割る。
 今まで自分が歩いてきた道が、無い。
「嘘だろ!」
 目を擦ってみるが、やはり道は無く、ただ木々が生い茂っているばかりである。
 今まで歩いてきた獣道は、来た道も先に伸びていた道も、共に跡形もなく消え去っている。
 木々や藪の中を進んでみるしかない、ということだろうか。
「無事に出てきた者はいない、ね」
 ウォルムは土地の古老の言を思い出して、軽く肩をすくめた。自分たちの聖地に人を寄せ付けないためにそう言っているのだとばかり思っていたが、どうやらこの森には本当に何かあるらしい。
 ……これは期待できるかもしれない。
 普通の人間であれば、この状況に絶望するところかもしれないが、ウォルムは逆にこの状況を吉と見た。少なくともこの森は普通の森ではない。ということは、「光の湖」が実在する可能性が高くなったと言えるだろう。もし「光の湖」がなかったとしても、この森には他の何かがあるかもしれない。探検してみる価値はあるはずである。
 ウォルムは右手の拳を左手に打ちつけて自分に気合を入れてから、藪を掻き分け、森の奥と思しき方角へと歩き出した。


 ウォルムは「光の湖」のことだけを考えながら歩き続けていた。雑念がなければ、森の不思議が自分を湖まで導いてくれるかもしれないという考えに基づいてのことである。伝説や御伽噺の中でのみ通用する考えかもしれないが、他に縋るべき手段はない。どんな根拠のないことでもやってみるに越したことはないだろう。そう自分に言い聞かせながら、ひたすら歩く。
 一刻以上の時が無為に流れた。深い森のこととて、時刻を判断する材料となる日光はあまり射し込んでこないが、冷えてきた外気などから判断するに、おそらくそろそろ夕方だろう。遅くならないうちに、どこか寝場所を確保しなくてはならないかもしれない、とウォルムは小さな溜め息をついた。
 泊り込みで探索をするつもりではなくとも、こうした探検になれている彼は、毛布や食料を始めとする一通りの道具を持ち歩いていた。まさか本当に使うことになるとは考えていなかったが。
 目標を、「光の湖」を探すことから今宵一夜を過ごす場所を探すことに切り替えて、ウォルムは歩き続けた。「光の湖」は、もう少し本格的な装備で出直してきて探すしかないだろう。
 ウォルムは、聞こえてくる音にふと違和感を覚え、耳を澄ました。
 それは、水の流れる音に聞こえた。
 逸る気持ちを押さえながら、その音がする方へと向う。
 藪を掻き分けて、道なき道を進む。ウォルムの鼻は、確かに水の匂いを嗅いだ。
 匂いと音を頼りに進むこと数分。
 突如目の前に、池と言ってもいいような、小さな湖が現れた。
 ぽっかりと開けた空から射し込む黄昏の残光は、しかし山に沈みかけていることもあって、湖に煌きをもたらしてはいない。
 湖は、小さな滝から流れ込んでくる水を受けて静かな漣をたてながら、ただそこにあるのみである。
「……光の湖……って感じじゃねえな」
 ウォルムは肩を竦めて呟いた。恐らく太陽が中天にある頃合には、この暗く静かな湖も光を放つはずだが、陽光を受けて輝いている時の湖は、伝説に言われるように「仄かに光って」などはいないだろう。群れなす魚の鱗のように眩しく煌いているに違いない。
 本当に伝説の湖があると信じ込んでいるわけでもなく、もしあったとしてもそう簡単に見つかるわけはないと思ってはいたが、もしかしてという気持ちが心の片隅にあったことは否定できない。しかし、もともともともとあまり深く物事を考える性質ではないため、落胆は微かである。
「ま、寝場所と水は確保できそうだな」
 呟いて彼は、湖の水を掬い、一日放浪したせいで汗と埃に塗れた顔を洗った。冷たい水が心地良く肌を刺す。
 周りを丹念に調べ、獣道が無いことを確認したウォルムは、手慣れた様子で火を起こし、湖の水を持参の鍋で沸かして干肉と米を煮た。干肉から出た旨みと程よい塩味が、疲れた身体に優しく染み渡ってゆく。
 空腹が満ち、眠気を感じた彼は、草の上に寝転がった。
 今は焚き火のおかげで温かいが、恐らく夜明け近くにはかなり冷え込むだろう。そう考えて毛布を身体に巻く。
 疲れていたせいか、まだ日が暮れたばかりであるというのに彼は欠伸一つする間もなく眠りに落ちた。
 翌日、目を覚ましたウォルムは湖のほとりに腰をかけ、素足を水につっこんだまましばし考えていた。ちょっとした探検のつもりだったので、手持ちの食料は少ない。目的地の在り処も、帰り道もわからないことを考えれば、とにかくどちらか方角を決めて歩き続けるしかないのは確かである。彼の感覚では、東に歩き続ければ入ってきたあたりに出るはずであるが、太陽の方角は、果たして当てになるだろうか。
 とにかく、歩いてみるしかない。
 彼は、皮袋一杯に水を詰め、歩き出した。
 湖の傍を離れるとすぐ、うっそうと茂った木々のせいで太陽は見えなくなった。方向感覚に自信のあるウォルムは自分の感覚を信じ、ひたすら東と思われる方向に歩き続けた。
 夕刻まで、時折休みながらもひたすら東に歩き続けたが、辺りの景色は変わらず、また獣道の一つも見つからないままであった。来た時の道程を考えればそろそろ森の外周部に出てもいい頃合である。
「参ったな……」
 ウォルムは思わず呟いた。
 藪の向こうには、見覚えのある湖。それが良く似た別の湖でない証拠に、昨日自分が焚いた焚火の跡がある。暮れかけた日の色から見るに、時刻すら同じ頃合であるようだ。
 今夜もここで眠るか……と心の中で呟いてウォルムは、昨夜の焚火跡の傍に荷物を投げ出した。
 翌日、今度は南に向かってみることにした彼は、やはり夕刻近くに湖の傍に戻ってくる羽目に陥った。その翌日もまた、同じように過ぎた。
「無事に戻ってきた奴がいないわけだ」
 呟いて、湖面に石を投げる。食料はとうに尽きている。しかし森に獣の姿は無く、湖にもまた魚影一つない。空腹を水で紛らわせるのも、もう限界である。このままでは、脱出ロを探す体力がなくなるのはすぐのことだろう。明日か、明後日にはもうこの場から歩き出す体力はおろか、気力すらも残っていないはずである。
 楽天的な気性の彼ではあるが、さすがに溜め息をつかざるをえない。
「これが光の湖なら、まだいいのに」
 何度見ても、深閑たる森に似合った静謐を湛える美しい湖ではあるが、ただの湖であることに変わりはない。
 無事に戻ってきた奴がいない、ということは戻ってきたけど無事じゃなかった奴がいたのかなあ、などと考えながらウォルムは手を枕にしてその場に寝転がった。無事でなくても、とりあえずこの森を抜けられればそれでいい、という考えすら心に浮かんでくる。
 仰向けに横たわった彼の目に、雲ひとつない茜色の空が映る。晴天が続いているのがまだ幸いであった。雨は急激に体力を奪う。
 彼は体力を温存するため、早々に眠ることにした。


 空腹のせいでウォルムが目を覚ました時には、まだ真夜中であるようだった。
 見上げた空には、星々のさやかな光を打ち消すほどに眩い、黄金色の光を放つ満月。
 風に揺れる木々の葉擦れの音が微かにするのみで、動物の声すらない静謐な夜を乱すほど眩しい月光が、湖のために開けた空から射し込んでいる。
「まったく、明るすぎて寝にくいっての」
 睡眠くらい充分に取らせてくれよ、と呟いてウォルムは、眩しい月光を避けるために横を向いた。
 その目に、湖が映る。
 ウォルムは空腹であることも忘れ、毛布を跳ね除けて立ち上がった。
 すっかり燠になっていた焚火が、毛布によって生じた風を受けて灰を撒き散らしたが、彼はそれにも気付かずにただ湖を見つめていた。
 湖に、仄かな光が浮いていた。
 満月にかき消されそうな、ささやかな星々の光を集めたかのような、微かな光。
 それは湖に流れ込んでいる小さな滝の前に、凝っている。
 いささか白く淡い色合いではあるが、その光は虹をかたどっているようである。
「光の湖……」
 ウォルムは呆然となりながら、それだけを呟いた。
 黄金色の月光と夜の闇、そして月に照らされて星のように輝く湖面との間に浮かぶ虹は、今にも消えそうな儚さとは裏腹に、確かな存在感をもってそこにあった。
 しばらくの間、ウォルムは魅入られたかのようにただそれを見ていたが、虹は消えることもなく仄かな光を放ち続けている。
 ウォルムは虹に少しでも近づこう、と歩き出した。
 湖畔は比較的なだらかで、月光は明るく、灯りの必要はないとも思われたが、ウォルムは念のために手燭に火を入れた。
 用心しながら一歩一歩、虹へと近づく。
 滝の斜め前まで来たウォルムは、滝を飾るようにして浮かぶ虹にしばし見とれた。
 帰り道が見つからないことも、空腹で倒れそうになっていることも、頭から消え去っていた。
 女神や精霊たちには出会えなくても、この光景を見られただけで、ここに来た意味はある。虹の光は強くはないが、彼にそう思わせるに十分な輝きであった。
 虹を見つめ続けていたウォルムは、あることに気付いて滝へと視線を移した。
 滝の中央が、なぜか少し光を放っているように見える。
「……?」
 良く見てみると、それは虹や月光が反射しているためではないようであった。
 ウォルムは手燭が消えないよう、用心しながら滝のすぐ傍まで歩を進めた。
 小さな滝であるとはいえ、近づけばその水音はかなり大きく、耳を打つ。
 手燭を掲げて見ると、滝の裏側に岩壁を抉って作られたような洞がある。それが水や風に抉られたのではなく、人為的なものである証拠に、壁や床に当たる部分はきっちりと真っ直ぐになっている。
「こんなもんがあったら、さっき気付いたと思うんだけどな」
 呟きながらウォルムは光の元を探そうと、滝の飛沫を受けながら一歩、滝の裏側へと入った。
 洞窟は奥行きがなく、目の前には祭壇のようなものがあるのみであった。そのすぐ奥はもう壁になっている。
 祭壇の上には、一本の剣。
 それが光を放っているようである。
 見れば、澄んだ水にも似た鋭い輝きを放つ刃といい、凝った意匠の施された柄といい、見事な剣である。
「これが、宝……か?」
 言い伝えを、少しは信じてここまで来たはずのウォルムであったが、奇跡のような現象が次々と現れたことを、素直に受け止められるほどには信じていなかったようである。
 彼は恐る恐る剣を手にした。
 手のひらに吸い付くような感触。幻ではない、それは確かに現実のものとして彼の手の内にある。
 見た目よりはるかに軽い、しかしそっと触れてみた刃は冷たく、そして鋭く研ぎ澄まされている。
 思いがけなかった分強く、ゆっくりとした喜びが胸に広がってくる。
 ウォルムは、その剣を握ったまましばし立ち尽くした。
 彼は、台に置かれた手燭の灯りが消えてもなお、差し込む月明かりの下で剣に見惚れ続けた。

 滝を通して差し込む月の光は、いつまでも彼の後ろ姿を照らし続けていた。


 1500hitキリ番リクエスト作品です。
 「月夜の虹」というリクエストで書かせていただきました。
 月虹(ムーンボー)の神秘的なイメージが少しでも表現できていれば良いのですが……。
 許可を得て掲載させていただいております。