星の乙女
閂を抜いて冷たい石塀に立てかけると、大きく開け放った門から地平線と、其処から頭を覗かせようとしている朝日を眺めやった。都へと続く一本道は生まれたばかりの白い光に照らされて、抜き放たれた長い刀身のように見える。ふと稚気に駆られて、俺は手に持っている箒を柄に見たて、道の刀を正眼に構えてみる。
都の兵士がやるように呼気を整えると、ゆっくり柄を頭上に持ち上げ、真っ直ぐに地平を見据えて立つ。
「いざ」
尋常に、勝負。見えない敵に向け呟くと、俺は剣を朝日に向けて振り下ろした。ばさりと鈍い音を立て竹箒は敷居の上を打ち、ここ数日掃除を怠っていたせいでうっすらと積もっていた埃を、宙にふわりと舞い上がらせた。いけない、俺は薄く立ち上る煙と埃を足で慌てて払う。と、背後で乾いた咳払いの音が聞こえる。おそるおそるながら屋敷の方を振り返ると、勝手戸の脇から険しい顔をした師匠がこちらをじっと見つめていた。間の悪いことだ。
「姫誕!」
鋭く一喝されて飛び上がる。
「な、なんでしょうか師匠」
忙しく竹箒を動かしながら、愛想笑いで俺は応えた。
「今日は客が来る。いつも、以上、に、丁寧に掃除をしろ」
「……はい」
師匠はこちらの返事も聞かず、くるりと踵を返すと勝手口に消えて行った。俺は飛ばされた嫌味を冷たい空気と一緒に肺腑に送り込むと、溜息にして吐き出した。最早剣ではなくなった竹箒で、かさかさと乾いた音を立てる落ち葉を丹念に掃き集めては一つところに纏める。しかし、家主の趣味で広葉樹だらけの庭には、一つの山をまとめるより先に、それを上回る量の落ち葉が降って来る。きりがない。
俺は、半分以上自棄になりながら掃除をしたが、庭の半分を掃き清め終わる頃には、朝日は既に地平を離れていた。
「たのもーう」
両腕に抱えるほどに大きな塵取りで畑と家を十往復もした頃、門の向こうで声がした。奥の間にいる師匠が応対するかと思ったが、悪口や俺が皿を割る音に対して超人的な聴覚を発揮する耳に、来客の声は届かないらしい。
「はい、ただ今!」
落ち葉を山積みにした塵取りを苦労しながら地面に置くと、俺は小走りに門へと向かった。
門の外から首だけを庭に差し出すようにしてこちらを覗きこんでいた来客は、走ってきた俺の姿を見ると、頭を慌てて敷地外へと引っ込めると被っていた笠を脱いだ。
長い白髪を後ろで一つに纏め、都の文官崩れのような洒落た服を着ているその男は、それだけなら都の商人のようにも見えた。しかし、腰に差している長い針のような剣が、男の柔らかな物腰とは裏腹な物騒さを醸し出している。
「趙恒様に会いたくて参ったのだが、師匠はご在宅だろうか」
男は、そう告げると拱手をし、頭まで下げた。
「はい、朝からお待ちでいらっしゃいます」
過ぎた礼をされて慌てた俺は、応えて何度も頭を下げながら彼を門から敷地内へと招きいれた。振り返った折に塵取りが服の裾にひっかかり、背後で枯葉が舞ってしまったが、気付かなかったことにする。
「師匠!」
扉を開き、招き入れた場所にそのまま客を待たせると、俺は奥の間へと大声を張り上げた。
「お客人がおいでですよ師匠!」
口の横に両手を当て、体を折り曲げるようにして声を出す。
「うるさい!」
と、いつものように怒鳴りながら師匠が奥の間から現れた。衝立の裏をすたすたと歩くと、鼻眼鏡を押し上げてこちらの方を睨みつける。その目が客人を捕らえるや否や、師匠の表情が大きく変わった。
「趙恒様!」
「おお、李明!」
二人は互いに歩み寄ると、満面の笑みを浮かべながら肩を叩き合う。古い知り合いなのだろうかと思いながら、俺は二人の様子を見守った。
「久しぶりじゃの、元明の料理対決以来じゃろうか」
「もう十二年にもなりましょうか」
「どうじゃその後、香は元気か」
「ええ元気です、賛もすっかり大きくなって」
「おお、おお、あの小さかった賛がのう」
自分と出会う前の師匠の話に興味がない訳ではなかったが、老人の長い思い出始まりそうになるのを後ろからそっと遮ると、俺は奥の間へと続く丸扉を開いた。
「積もる話もおありでしょうが、どうぞ中へ」
そうじゃったそうじゃったと頷くと、師匠は李明の背を押しながら奥の間へと向かった。やれやれと肩を竦めようとしたところ、まるでその仕草をこちらがするのを察したかのように、師匠はくるりとこちらを振り向く。
「姫誕、李明に茶を用意しろ。楊県のではなく、枢県の方でな」
竦めかけた肩を無理やり元の位置に押し戻すとわかりましたと頷き、俺は二人に礼を返しながら厨房へと下がった。
「そうか、もうそんな年か」
最高級の茶を持って渡り廊下に差し掛かかると、奥の間から師匠の嬉しそうな声が聞こえた。
師匠のこの声が聞けるのは、俺にとってあまりいいしるしではない。師匠がこのような明るい声で物を言うのは、何か、良からぬ料理のことを考えている時なのだ。良からぬというのは、決して味が不味いとか見た目が悪いとかいう意味ではない。その料理のためだけに、命よりも高い茸を取りに竜の住まう山に入ろうとしたり、断崖絶壁に鳥の巣を取りに行こうとする、性質の良くない、を表すほうの意味だ。
「姫誕君も、もう乙女の調理法くらい知った方が良いでしょう」
おとめ、という耳慣れぬ言葉に、俺は思わず格子戸の手前で脚を止めた。寂しい男所帯にこれほど似合わぬ単語もないだろう。おとめ。そんなつもりはないのだが、ついつい部屋の中の二人の会話に耳をそばだててしまう。
「いやしかし、あれはまだまだ、嘴の黄色いひよっ子で」
「乙女の味を知らぬのは、人生を半分死んでいるも同じ。ここは一度くらい、与えてやってはどうでしょうか」
「しかしいや勿体無い。わしなら造作もなく乙女を女にできるが、あやつの技術ではなぁ。一体どんな失敗をするかわかったもんではないぞ」
からからと師匠と客人は笑う。俺は盆を持つ手と地を踏みしめる足が震えだすのを必死で止めた。食いしばった歯の間から、生唾が湧く。飲み込んでみれば、喉が不必要にごくりと大きな音を立てた。額に滲んだ汗を、俺は服の裾で拭った。
知人の艶話というのはどうにも具合の悪いものだが、それが自分を題材に展開されるなど、更にいたたまれない。しかも師匠は料理のことだけでなく、大人の男としての自分さえもまるで半人前のように話している。悔しい、と思う気持ちと情けない、と思う気持ちが怒りと混ざって足が震える。動かない。聞きたくないのに、その場を立ち去ることもできず、俺は二人の会話に再び耳を奪われる。
「本年はどの村のも上玉でして。南は海の向こうから北は山の向こうからまで、皆様うちの店に、新鮮な一夜の夢をわざわざお買い上げにいらっしゃるほどでございます」
買い上げる。その言葉を聞いた瞬間、鳥籠のような檻にぎゅう詰めにされた半裸の少女たち、という映像が脳裏に閃いた。慌てて頭を振ると、妙な妄想を振り払う。一体この李明というのはどういう商売をしている人間なのだろうか。そしてその李明と古く親しい知り合いであるうちの師匠というのは一体。
「いやいや聞けば聞くほど勿体無い。恥らう乙女を開くのはやはり、そこはそれ、その道一流の料理人が優しく、優しくでなければな」
「それこそ趙恒様のような」
「昔が懐かしいわい。わしら二人、一夜に十五もの乙女を侍らせたこともあったわな」
そうか、師匠に結婚した様子がないのはそういう訳だったのか、妙に合点の行く心地がした。しかし一晩に十五人とは尋常でない。一体どんな薬膳を使えばそんな真似ができるのだろうか。
「そうそう、一人ずつ台に並べて」
「端から」
「お前が余りにがっつくので、三体で四半刻も持たなかった」
調理台の上に並べられた少女たちが、端から無体な行為を強いられている場面が浮かび、どうにも頭がくらくらした。からからと部屋の中からは、陰惨な話題とはまるで無関係であるかのように能天気な笑い声が響いている。自分が師匠と仰いでいる人間、その技に惹かれ教えを乞うた人間とは一体誰だったのだろうかと思うと目の前が暗くなるような心地がする。
勿論俺は師匠が完璧な人間だと思って弟子入りした訳ではない。しかし、料理の技術だけを慕って弟子入りしたという訳もないのだ。
部屋の中では、笑いが一段落ついたのか、元の調子に戻って、李明が師匠に語りかける。
「どうなさいますか?」
問われて、師匠はふむう、と唸った。
「勿体無いとも思うが、しかし、今年を逃すと次はまた五年後じゃからのう……姫誕にもそろそろ乙女の開き方を教えねばならぬ頃合かのう」
再び出てきた己の名前に、俺はびくりと体を竦ませた。盆の上に乗った陶器が少し傾き、茶が椀の縁から溢れそうになる。
「では」
「そうさのう……二十体ほど届けてもらおうか」
二十! その多さに俺は愕然とした。師匠が自分で十五は受け持つ心づもりだとしても、こちらにまわされるのは、五。五人もの乙女に囲まれたなら、自分は一体どうなってしまうのだろう。そんな悪癖に身を浸してしまって、生んでくれた親に顔向けできるのだろうか。己の良心に恥じずにいられることができるのだろうか。
逃げるか、ふとそんな言葉が心に浮かんだ。中庭の向こうに、先ほど散らかしてしまった落ち葉と、そのままになっている塵取りを見る。
あの剣のような道を辿って、都まで行くか。それとも故郷に帰るか。今までやって来た修行も師匠も捨て一人、地平を越え、何処までも行くのか。
ぼんやりと庭を眺めやる自分の目と門との間に、落ち葉が降り積もっていく。溜息を吐くと俺は首を振った。
俺は料理人になる。料理人に、しかも超一流の料理人になる。そのためには、全てを捨てると決めたのだ。一度決めたことを覆すのは嫌いだった。
今更良心が両親がなんだ。意を決すると、俺は丸扉に下がっている呼び鈴を引いた。部屋の中で、涼やかな鐘がちりりんと鳴る。
「入れ」
いつもどおり、いかめしい師匠の声がした。失礼しますと言うと、俺は茶盆を捧げ持ったままに丸扉を開けた。
「やあ姫誕君、今、君の話をしていたところなんだよ」
李明さんは満面の笑みを浮かべ、椅子の背ごしにこちらを振り返った。はあ、と気の抜けたような返事をしながら、俺は二人の間に置かれている卓子の上に茶盆を置いた。
「話と言うと」
「君は乙女を知っているかね」
先ほど聞いた話と、裸の少女たちが頭をちらつく。知っていますとも知らないとも言えず、俺は黙って首を振った。
「こぉの……バカ弟子が!」
と、途端に椅子を蹴って立ち上がり、師匠が怒鳴った。盆で顔に飛んできた唾を防ぐと、俺は恐る恐る師匠の顔色を窺う。師匠は椅子の上にどさりと腰を下ろし、ふん、と鼻で息を吐いた。
「今までわしの下で、一体何を習っておったのだ! その目は節穴か! その耳は飾りか!」
「まあまあ趙恒様」
師匠にとりなすと、李明さんは袖の下から棘の沢山生えた橙色の果物を取り出した。それは握りこぶしくらいの大きさで、中央の殆ど赤と言ってもいいほどに濃い橙から、先に向かうに従って少しずつ色の薄くなって行く棘をいっぱいに生やしている。
「これのことです」
「は?」
「これが星の乙女です」
李明さんは、そう言うとどうかしましたかと首を捻った。多分、俺は酷い間抜け面をしていたのだろうと思う。
「は、これが、乙女」
「そうです。特殊な染料を混ぜた肥料をやって苗から育てますので、大変手間がかかります。この色が出るのは五年に一度だけなのですよ」
言うと、李明さんは腰に下げていた大きな針のようなものをすらりと抜いた。
「棘を折ってしまうと、全てが台無しになるので気をつけなくてはなりません」
言うと、李明さんは針の先を実の部分に軽く刺した。そのまま器用に針と卓子、巻いてあった布を使い、何度か同じような仕草を、刺す場所を変えて繰り返す。
「えいっ」
李明さんが最後に気合を入れて一突きすると、果実の周りを包んでいた鋭い棘と皮の部分が落ち、中から紅玉と見紛うばかりの果肉部分が転げ落ちた。
ひし形を二つ中心部分で重ね合わせたような形のその果肉は、よくよく見れば星のような形をしている。
「これが、星の乙女……」
「食べてみますか」
言われ、俺は何度も頷いた。人差し指と親指で果汁の滴る赤い宝石をつまむと、そっと舌の上に乗せる。酸味と甘みの程よい調和、それに馥郁とした香り、そして驚くほどにやわらかい舌触り。
「美味い!」
その味を惜しみつつも乙女を飲み込むと、俺は叫んだ。興奮しきっている俺を満足そうに眺めると、李明さんはうんうんと何度も頷いた。
「これを美しく開けるかどうかが、一流の料理人とそうでないものを分けるのです」
なるほどなるほど、と李明さんの話を聞きながら、俺も何度も頷いた。
それでは、一週間以内に届けてみせますよ、そう告げると、乙女の色の夕日に背を向け、李明さんは再び都へと帰って行った。師匠と一緒に彼の後姿に手を振りながら、俺はそっと師匠の横顔を盗み見る。視線に気付いたのか、師匠はこちらに横目をくれると、ふん、と鼻で笑った。
「乙女は美味かったろう」
「はい」
「汝その味に溺れるなかれ、じゃ。あやつなどはな、乙女好きが高じてしもうてな。料理人の道を捨てて、自分で畑を持ちよった。お前はそんな風になってはならんぞ、姫誕」
師匠の言葉に、神妙に俺は頷いた。
「わかったか。では、掃除の続きをせい」
地面に転がっている塵取りを顎で指すと、師匠は朝と同じように屋敷の中へ戻って行く。庭に置きっぱなしの箒を拾うと、俺は再び落ち葉だらけになってしまった庭を見回した。
やはり、師匠は師匠だった。再び落ち葉に埋もれてしまった庭を見、舞い落ちる枯葉を見、そして師匠の後姿を見して俺は思った。
夢寐さんのファンの人ごめんなさい
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