黄昏の空

(お題:070 光さす庭)



 少女は、部屋の中で今日も一人静かに座っていた。いつもと同じように、壁際に置かれた揺り椅子の上で、膝の上の古色蒼然とした本をゆっくりと捲っている。
 薄い色合いの黄緑色で塗られた壁、白い布の張り巡らされた寝台、穏やかな橙色の絨毯。調度はどれも白木で作られている。明るく穏やかな色で満ち溢れた部屋は、しかしなぜか酷く沈んだ空気に包まれていた。
 その原因の一つは扉。幾枚もの布で隠されたそれは、部屋に不釣合いなほど小さく、そして頑丈に作られている。
 もう一つの原因は窓。遠目に見ればその向こうに、丁寧に手入れされた庭が広がっているようにも見えるかもしれないが、この部屋のどこから見てもその光景はまやかし……窓に嵌め込まれた板に描かれたただの絵である。三つある窓にそれぞれ朝、昼、夕の庭が描かれている。
 彼女は本を閉じ、それを小さな卓子にそっと置いて立ち上がった。夕景が嵌め込まれた窓の前で立ち止まり、その細い指で絵をなぞる。まだ夕暮れと言うには少し早い、赤い太陽に照らされて橙に染まった空と庭が描かれたそれは彼女が最も好きな絵である。
 その絵を見る彼女の諦めと希望がない交ぜになったその瞳の色は薄い赤、一つに束ねて三つ編みにされた長い髪は白、そして心持ち俯き加減の顔は限りなく白に近い薄桃色。彼女の全身は翳んでいるかのように淡い色合いで彩られている。
 彼女は物心ついてから一度も、昼の光を見たことがない。彼女が外出を許されるのは、日が落ちきって、星屑を散りばめた深い紺色の空に月が彷徨い始めてから、それも庭に限ってのことである。
 幾重にも布を被り、顔すらも紗の布で隠してようやく彼女は庭に出ることができる。彼女の弱い肌には、月明かりでさえも毒なのだ。
 歩く道筋は、屋根と透かし彫りの庇、そして格子状の壁に守られている回廊のみで、自由に歩き回ることも出来ない。それでも彼女は、ほの白い光に輝く庭の東屋で一杯のお茶を飲むその時間を楽しみにしていた。
 この窓の絵は、幼い頃の彼女が、どうしてもその庭が太陽の光に照らされているところが見たいと駄々を捏ねた際に、裕福な商人である父が設えてくれたものである。
 妻に先立たれた彼は、一粒種の娘に精一杯愛情を注いでくれている。だから彼女は、自分の境遇に強い不満を持ったことはない。力強い夏の日差しや優しい春の木漏れ日に強い憧れはあるが、彼女はそれらに対する憧れを、物語に描かれた理想の王子像と同じく手の届かないものとして扱うことに慣れていた。
 彼女は、首を廻らせて水時計を見た。そろそろ朝日が昇りきる頃合である。
 顔以外の全てを覆い尽くす上着を脱ぎ、それを枕元の椅子にかけて、彼女は衾褥の狭間にそっと滑り込んだ。


 館の一室で静かに毎日を過ごす彼女は知らないが、国は今、不安の只中にあった。当代の王が、隣国の王と諍いを起こしたからである。この大陸の王全てが集まる会議の席上で、隣国の王を辱めるような発言を為した王は、しかし生来の強気のせいで膝を折ることをよしとしなかった。常々問題視されてきた王である。仲裁を買って出る国はなかった。
 隣国の王は怒りも露に戦の準備をしていると言う。強力な魔導師たちを抱える隣国は、おそらく予想もつかない手段で攻めてくるだろうと、巷の者たちは口々に噂している。その際は真っ先に狙われるであろうと、既に都から逃げ出した者たちも多い。
 少女の父も、都からの逃亡を考えていた。太陽の光に当たると皮膚が焼けてしまう娘を安全に住まわすことができるよう別荘を改築させ、そこまで連れて行くための手段を確保しようとしていた。
 だが、全ては遅きに失した。
 特注の馬車が届けられたその日、黄昏の太陽に代わって都の空を染めたのは、真昼の、閃光のような陽光よりも眩しい白い光だった。
 外を歩いていた者たちは、その強い光に打ち倒されたかのように地に伏した。少し前の賑わいはなくとも、まだまだ人の多かった街路は、空を掴み、あるいは敷石に爪を立てたまま息絶えた人々の屍で埋まった。
 家の中にいたもののうち、窓に近かった者たちは、外にいた者たちと同様に弾かれたように飛ばされ、苦悶のうちに息を引き取った。窓から遠かった者たちは、光が届かぬ地下室などにいた者たちを除いて、やはり光から逃れることは出来なかった。光から遠い分、長い苦悶の時を経て、彼らは死んでいった。
 王も例外ではない。
 大臣たちが口々に隣国に詫びるよう諌めるのを苛立たしげに聞いていた彼は、正面の窓から差し込む光に押され、まるで玉座に磔にされるようにして死んだ。
 夕暮れ時とあって炊事の煙棚引く都は、半刻も経たないうちに静まり返った。
 やがて空が紫紺に代わるころ、都は炎に包まれ始めた。


 少女は白い布に守られた寝台で目を覚ました。水時計に目をやると、いつもならば食事が運ばれてくる時刻である。しかし、部屋に侍女の姿はなかった。
 少女はゆっくりと立ち上がった。決められた時間に決められた物事が行われないのは、彼女にとって初めの経験だった。不安が心の片隅でひっそりと鎌首をもたげる。
 少し悲しそうな顔で首を傾げ、少女は布で隠されている扉の方を見た。少女が幼く、自分の身体のことを理解していなかった頃と違って鍵は掛かっていない。彼女は、いつもならば侍女が着せつけてくれることになっている外出用の服を慣れない手つきで纏い、扉の把手に手をかけてゆっくりとそれを開いた。庭への出口と続く廊下には窓がない。彼女は、いつもならば灯されている蝋燭の光もない廊下を、侍女の名を、そして父を呼びながら、ゆっくりと進んだ。しかし、返事はない。衣擦れの音以外は、耳が痛くなるような沈黙だけがそこに漂っている。
 慣れた道筋とあって何事も無く庭への扉へと辿り着いた彼女は、その把手に手をかけたまま、しばし考えた。
 外に出てしまっていいものだろうか。
 介添えしてくれる侍女も、父もいない。外出用の服は纏っているが、これを自分で着たのは始めてのことである、果たして正しく着ることができているのか。
 彼女は不安に駆られ、把手から手を離して再び父と侍女を呼んでみたが、やはり返事はなかった。
 しばしの後、少女は意を決したように扉に手をかけた。大きく息を吐き、思い切って把手を捻る。
 扉を開いた瞬間、針で刺されるような小さく鋭い痛みに襲われた彼女は小さな悲鳴をあげた。急いで蹲り、顔を覆う薄布を掻き合わせる。紗の布がうまく重なっていなかったために曝された顔は、光を遮った後もちくちくと痛んだが、彼女は思い切って顔を上げた。
 透かし彫りが施された庇と格子を潜り抜けてきた光は、月明かりの冴えた銀色ではなかった。
 窓に描かれた絵の一枚、夕景を描いたそれと同じ橙色だった。
 彼女は驚いたような表情で、周りを見回した。時刻は確かにもう夜の筈なのに、紗を透かして見る光景は夢見てきた夕焼けの庭そのものである。
 雲を踏むような足どりで、彼女は東屋へと向かった。こんなに明るい庭に出ていいものか、という迷いは目の前の光景の魅力に掻き消されていた。
 紗の布を通して差し込んでくる光はもう、彼女に痛みを与えなかった。ただ、先程曝された顔に痒みにも似た微かな痛みが残っているだけである。
 楽しみにしている一杯のお茶はなかったが、東屋の椅子に腰を降ろした少女は橙に染まる庭を見つめ続けた。
 ただひたすら、幸せそのものといった顔で彼女はそこに座り続けていた。


この話を基にしてミーさんが描いてくれたイラストがこちらにあります
よろしければどうぞ。
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