清秋の祭

(お題:024 あなたに会いたい)


 青年は煙と怒号渦巻く酒場の隅で、静かに溜息をついた。
 目の前で騒ぐ仲間たちは、戦の憂さを、そして他の何かを忘れようとするかのように必死で騒いでいるように見えた。

「この町にはいつまでいる予定なんだ?」
 青年は、隣で同じように静かに酒を飲んでいる副団長に尋ねた。青年はまだそう年季の入った傭兵ではないが、入れ替わりの激しいこの団では古株の方に入るため、複数に団を分けて行動するときには一軍を任されることもある。最初は恐る恐る口を利いていたこの副団長とも、生死を共にし、戦い抜いてきたことで大分親しくなった。
 今、この酒場は彼の所属する傭兵団によって貸しきり状態となっている。他国での長い戦を終え、一度はこの国へと帰ってきた彼らだが、すでに次の仕事は決まりかけており、交渉が済めばこの町を出て新たな戦場へと向かうことになる。
「大体一週間、といったところだな。今回の仕事が決まらなかったらわからんが、まあまず間違いなく決まるだろう」
 青年は小さく頷き、無言で杯を傾けた。
 酔っ払った仲間たちをどこか楽しそうな目で眺めていた副団長はあることに気付いて青年の方へと視線を向けた。
「……そういや、お前の故郷はこの近くか」
「ああ」
 視線を合わせずに答え、杯を卓に置く。ことり、という小さな音は喧騒に飲まれて消えた。
「顔出して来いよ」
 副団長は青年がこちらを見ないことを気にもしないような素振りで、仲間たちの歌う下卑た歌詞の、だが陽気な旋律に口笛で合いの手を入れた。傭兵たちの一人と踊っていた酒場の給仕娘が振り返って片目を瞑ってみせるのに応えて小さく手を振る。
「そうさせてもらってもいいかな」
 青年はやはり視線を合わせないようにして、一旦は卓に置いた杯をもてあそびながら尋ねた。その頬に微かな照れの色があるのを見て取って、副団長は穏やかな笑みを浮かべた。
「構わんさ」
 普段からリュートを持ち歩いている団員が奏でる楽の音がいっそう高く、早くなるにつれて、踊る男たちの靴音が響き渡る。
「……帰ってこなくてもいいんだぞ。もう、目標は達成しているだろう?」
 しばしの後、副団長は前を見据えたままぽつりと呟いた。
 青年は副団長の横顔へと視線を注いだ。相変わらず楽しそうな顔で仲間たちの馬鹿騒ぎを見る彼の顔からは何も読み取れない。
 今の殺伐とした暮らしを捨てて村に帰る。住み慣れた、あの懐かしい村へ。何も無い、だが平穏で温かいあの村へ。
 実感が湧かない。確かに両親や知人の顔は見たい。村を出たときに立てた目標は達成していると言えないこともない。だが、自分が帰りたいのかどうか、青年には良くわからなかった。
「一週間経って帰ってこなかったら置いていくからな」
 無言のまま少し俯く青年を見る男の顔から、先程までの笑みが消えている。
「わかった」
 青年はゆっくりと顔を上げ、静かに、だが力強く頷いた。とにかく、行ってみるしかない。再びあの村で暮らすかどうかは、その時になってから決めればいい。
「兄さんも踊りなよ」
 給仕娘の一人が、青年の顔を覗きこんだ。彼女が屈むのに合わせて豊かな胸乳が揺れる。
「いや、俺はいい」
 黒い巻毛を綺麗に結い上げた娘の誘いを断り、青年は杯の中身を飲み干した。
「そいつは堅物だからな、誘っても無駄だ」
「そうそう。そんな奴より俺と踊ろうぜ」
 娘は嬌声を上げて、誘いをかけた男の方へと向かった。
「よし。じゃあとっとと行って来い」
 そう言って立ち上がり、踊りの輪へと向かう副団長の顔には、再び楽しそうな笑みが浮かべられていた。


 少年の頃に比べて随分速くなった足で、山々に囲まれた小さな村へと続く道を歩く。
 青年は、しかし最後の角を曲がらなかった。秋の実りが刈り取られた麦畑を通り過ぎ、そのまま里山へと向かう。
 角を曲がれば村の入り口へと向かうのはわかっている。しかし、村につく前に一人で少し考えたかった。
 帰りたいのか、帰りたくないのか、今までの生活を続けるのか、農業生活に戻るのか。
 いくら考えても答えは出ないかもしれない。
 しかし、町に戻らなくてはならない日まではまだ間がある。村を眺めながら少し考えていっても問題はない。いや、そもそも団に戻らないのであれば、いくらでも考えていていいはずなのだ。
 里山に人影はなかった。もしかしたら誰かに会うかもしれないと思っていた青年は、安堵の溜息をついた。
 足が自然と、少年の頃に通った場所へと向かう。
 岡と言ってもいいような小さな山の頂上近く、村にいた頃の少年にとって、一番空が近く感じられた場所である。
「こんなに小さかったかな」
 呟いて青年は目の前の岩に登った。昔はよくこの上に寝転んだものだが、今の彼がそうするには岩の上は少し狭い。
 村が一望できる岩の上に立ち上がり、青年は村のある方向へと顔を向けた。
「……もう、そんな季節か」
 村の中心部、小さな村に似つかわしい小さな神殿。大地の神を祭るその神殿の周りには、小さな天幕がいくつも張られていた。耳を澄ませば、風に乗って楽の音も微かに聞こえてくる。
 収穫の祭りである。村の誰もが新年祭とこの祭りを楽しみにしていた。いや、これ以外に楽しみなどなかったと言ってもいい。
 彼はふと瞳を閉じた。胸のうちに、過去の思い出がいくつも甦ってくる。村一番の歌い手の朗々とした声、何人もの手拍子や太鼓が織り成す振動、神官が古代語で紡ぐ祈り、人々の談笑が醸し出すざわめき。天幕の中にはおそらく昔と同じように、麦穂の束や籠に盛られた今年の収穫……今年は豊作だっただろうか。瞼の裏には、輪になって踊る皆の軽快な足さばきや酒に酔って赤い顔で笑う老人たちが鮮やかに浮かび上がる。
 青年は静かに目を開けた。神殿から、白い長衣を纏った行列が出てくるのを見て、目を瞠る。
 村の未婚の娘たちが、今年の収穫の中でも出来の良かったものを神に捧げる行列である。大役を終えた娘たちを、皆が拍手で迎えているはずだ。
 先頭に立つ娘の麦藁色の髪が、秋の澄んだ日差しにきらりと光った。
 青年は、息を飲んだ。この村で、あんな色に輝く髪を持っている娘は、いつも一緒にいた幼馴染だけである。
「まだ結婚してなかったのか」
 とっくに結婚したものだと思っていた。彼女は自分と同い年である。町よりも適齢期が早いこの小さな村では、もう子供の二人や三人いてもおかしくない年頃だ。
 娘たちを迎えた村人たちの先頭に立っていた男が、おそらくは微笑みながら歩いてきたであろう彼女を抱きしめるのを見て、青年は岩から飛び降りた。
 止めても聞かない彼を待っていると言ってくれた彼女を振り捨てて出てきたのは自分なのに、さっきまでは、もう結婚しているだろうと思っていたはずなのに。
 幾年もの間、顔も出さずにいた自分が悪いのだとわかっている。繋ぎとめておくつもりなら、いくらでもやりようはあったはずだ。帰ってくるという約束もしなかった、いや、帰ってくるつもりもなかったし、彼女のことはもう忘れたつもりでいたのに、なぜこんなにも胸が痛むのだろう。
 青年は、岩を背にして座り込み、天を仰いだ。季節の移り変わりにつれて、高くなったように思える青い空が眩しい。
 きっと彼女はあの頃と同じ笑顔で、あの男の腕に飛び込んだだろう。
 目を閉じた彼の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
 何の屈託もない、楽しそうな皆の顔が次々と思い出される。自分はもう、あんな風には笑えない。刈り入れられた麦畑に何の感慨も抱かなくなってしまった自分が、今更村で生活することなどできるわけもないのに、未練がましく幼馴染の恋に胸を痛めていることがおかしい。口元に浮かんだ笑みは、自然に虚ろな笑声となって空に吸いこまれていった。
 しばらくの後、青年はのろのろとした仕草で立ち上がった。
 駆けるようにして、神殿とは違う方角へと里山を降る。村人全員が神殿の広場に集まっているため、人の気配のない村をそのまま駆け、青年は親が住む家へと向かった。
 裏へと回り、窓から家の中を覗く。
 そこは、まるで時の流れから忘れ去られたかのようにそのままだった。
 小さく息を吐き、青年は腰につけていた皮の袋を一つ外した。金属の触れ合う鋭い音が鳴る。
 首から掛けていた紐を力任せに引きちぎり、袋の口を縛る紐に合わせて巻く。陽光に煌めく琥珀色の石が袋に当たり、硬い音をたてた。彼が生まれた時、両親から与えられたお守りである。これをみれば、袋の主が誰かはすぐ知れるはずだ。
 彼はそれを静かに台所の窓枠へと置いた。毎朝換気のために開ける窓である。明朝には母が気付くだろう。
 青年は無言のまま懐かしい家に背を向け、歩き出した。
 昔はただ閉塞感を覚えるだけだった村を囲む山々が、今の彼にはなぜかこの村を守っているように見えた。


「何だ、帰ってきたのか」
 団へと戻ってきた彼を迎えたのは、出立の準備に沸き立つ空気と副団長の一言、そして仲間のからかうような笑みだった。
「悪かったな」
 ぶっきらぼうに答え、青年はここ数年ですっかり染み付いた意地の悪そうに見える笑みを浮かべた。
「あーあ、せっかくお前のつら見なくてすむようになると思ってたのによ」
「くたばる前に辞めりゃいいのに」
 口々に勝手なことを言いながら青年の肩を叩いて去っていく仲間たちの背を、彼は少しだけ和ませた表情で見送った。
 一人残った副団長は、静かな視線を青年に向けた。
「……良かったのか? キーツ」
「ああ」
 青年は、真っ直ぐ副団長へと視線を返した。迷いはまだ胸のうちに澱んでいる。しかし、自分は一人前の人間として、この道を選択したのだ。
「あんな祭りが唯一の楽しみなんて冗談じゃねえ」
 青年は吐き捨てるように言った。本当は懐かしくて、もう一度あの輪の中に入りたいと思った祭りだが、それは郷愁に過ぎないのだと自分に言い聞かせる。帰ってしまえばただ重苦しく、辛い思いをするだけなのだ、と。
「……ま、そりゃそうだな」
 そんな彼の顔をしばし無言で見ていた副団長は、呟くような声で応えた。
「仕事、決まったんだろう? 俺も仕度しないとな」
 副団長の答えも待たず、青年は彼に背を向けた。

 青年は腰に愛用の剣が下がっていることを確かめ、ゆっくりとした、しかし大きな歩調で歩き出した。
 彼がこれから旅することになる街道の上には、雲がゆったりと流れていた。


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